正文 一 - 2

吾輩の主人は滅(めった)に吾輩と顔を合せるがない。職業は教師だそうだ。校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんどてるがない。のものは変な勉強だと思っている。人も勉強であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗(のぞ)いて見るが、彼はよく昼寝(ひるね)をしているがある。時々読みかけてある本のに涎(よだれ)をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色(たんこうしょく)を帯びて弾力のない不活溌(ふかっぱつ)な徴候をあらわしている。その癖に飯を食う。飯を食った後(あと)でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本のへ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考えるがある。教師というものは実に楽(らく)なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでもぬはないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達がる度(たび)に何とかかんとか不平を鳴らしている。

吾輩がこのへ住み込んだ時は、主人外のものにははなはだ不人望であった。どこへ行っても跳(は)ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今日(こんにち)に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。吾輩は仕方がないから、る限り吾輩を入れてくれた主人の傍(そば)にいるをつとめた。朝主人が新聞を読むときは必ず彼の膝(ひざ)のに乗る。彼が昼寝をするときは必ずその背中(せなか)に乗る。これはあながち主人がきという訳ではないが別に構い手がなかったからやむをんのである。その後いろいろ経験の、朝は飯櫃(めしびつ)の、夜は炬燵(こたつ)の、気のよい昼は椽側(えんがわ)へ寝るとした。しかし一番持のいのは夜(よ)に入(い)ってここのうちの供の寝床へもぐり込んでいっしょにねるである。この供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入(はい)って一間(ひとま)へ寝る。吾輩はいつでも彼等の中間に己(おの)れを容(い)るべき余を見(みいだ)してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く供の一人が眼を醒(さ)ますが最後変なになる。供は――ことにさい方が質(たち)がわるい――猫がた猫がたといって夜中でも何でもきな声で泣きすのである。すると例の神経胃弱の主人は必(かなら)ず眼をさまして次の部屋から飛びしてくる。現にせんだってなどは物指(ものさし)で尻ぺたをひどく叩(たた)かれた。

吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘(わがまま)なものだと断言せざるをないようになった。ことに吾輩が時々同衾(どうきん)する供のごときに至っては言語同断(ごんごどうだん)である。分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛(ほう)りしたり、へっついの中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手しをしようものなら内(かない)総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を磨(と)いだら細君が非常に怒(おこ)ってそれから容易に座敷へ入(い)れない。台所の板の間で他(ひと)が顫(ふる)えていても一向(いっこう)平気なものである。吾輩の尊敬する筋向(すじむこう)の白君などは逢(あ)う度毎(たびごと)に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。白君は先日玉のような子猫を四疋産(う)まれたのである。ところがそこの(うち)の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄ててたそうだ。白君は涙を流してその一部始終を話した、どうしても我等猫族(ねこぞく)が親子の愛を完(まった)くしてしい族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅(そうめつ)せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。また隣りの三毛(みけ)君などは人間が所有権というを解していないといって(おおい)に憤慨している。元我々同族間では目刺(めざし)の頭でも鰡(ぼら)の臍(へそ)でも一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて善(よ)いくらいのものだ。しかるに彼等人間は毫(ごう)もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために掠奪(りゃくだつ)せらるるのである。彼等はその強力を頼んで正に吾人が食いべきものを奪(うば)ってすましている。白君は軍人のにおり三毛君は代言の主人を持っている。吾輩は教師のに住んでいるだけ、こんなに関すると両君よりもむしろ楽である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄えるもあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。

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