正文 一 - 4

我儘(わがまま)もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報を耳にしたがある。

吾輩のの裏に十坪ばかりの茶園(ちゃえん)がある。広くはないが瀟洒(さっぱり)とした持ちく日の(あた)る所だ。うちの供があまり騒いで楽々昼寝のない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへて浩(こうぜん)の気を養うのが例である。ある春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後(ちゅうはんご)快よく一睡した後(のち)、運動かたがたこの茶園へと歩(ほ)を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してそのにきな猫が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向(いっこう)付かざるごとく、また付くも無頓着なるごとく、きな鼾(いびき)をして長々と体を横(よこた)えて眠っている。他(ひと)の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に睡(ねむ)られるものかと、吾輩は窃(ひそ)かにその胆なる度に驚かざるをなかった。彼は純粋の黒猫である。わずかに午(ご)を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚のに抛(な)げかけて、きらきらする柔毛(にこげ)の間より眼に見えぬ炎でも燃(も)え(い)ずるように思われた。彼は猫中の王とも云うべきほどの偉なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、奇のに前後を忘れて彼の前に佇立(ちょりつ)して余念もなく眺(なが)めていると、静かなる春の風が、杉垣のからたる梧桐(ごとう)の枝を軽(かろ)く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。王はかっとその真丸(まんまる)の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀(こはく)というものよりも遥(はる)かにしく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸(そうぼう)の奥からるごとき光を吾輩の矮(わいしょう)なる額(ひたい)のにあつめて、御めえは一体何だと云った。王にしては少々言葉が卑(いや)しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫(ひ)しぐべき力が籠(こも)っているので吾輩は少なからず恐れを抱(いだ)いた。しかし挨拶(あいさつ)をしないと険呑(けんのん)だと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装(よそお)って冷と答えた。しかしこの時吾輩の臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は(おおい)に軽蔑(けいべつ)せる調子で「何、猫だ?猫が聞いてあきれらあ。全(ぜん)てえどこに住んでるんだ」随分傍若無人(ぼうじゃくぶじん)である。「吾輩はここの教師の(うち)にいるのだ」「どうせそんなだろうと思った。いやに瘠(や)せてるじゃねえか」と王だけに気焔(きえん)を吹きかける。言葉付から察するとどうも良の猫とも思われない。しかしその膏切(あぶらぎ)って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるをなかった。「己(お)れあ車屋の黒(くろ)よ」昂(こうぜん)たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も際しない。同盟敬遠主義の的(まと)になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じをすと同時に、一方では少々軽侮(けいぶ)の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無であるかを試(ため)してみようと思って左(さ)の問答をして見た。

「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」

「車屋の方が強いに極(きま)っていらあな。御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」

「君も車屋の猫だけに分(だいぶ)強そうだ。車屋にいると御馳走(ごちそう)が食えると見えるね」

「何(なあ)におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不由はしねえつもりだ。御めえなんかも茶畠(ちゃばたけ)ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己(おれ)の後(あと)へくっ付いてて見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」

「追ってそう願うにしよう。しかし(うち)は教師の方が車屋よりきいのに住んでいるように思われる」

「箆棒(べらぼう)め、うちなんかいくらきくたって腹の足(た)しになるもんか」

彼は(おおい)に肝癪(かんしゃく)に障(さわ)った様子で、寒竹(かんちく)をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ちった。吾輩が車屋の黒と知己(ちき)になったのはこれからである。

その後(ご)吾輩は度々(たびたび)黒と邂逅(かいこう)する。邂逅する毎(ごと)に彼は車屋相の気焔(きえん)を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳件も実は黒から聞いたのである。

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