正文 一 - 6

通人論(つうじんろん)はちょっと首肯(しゅこう)しかねる。また芸者の妻君を羨しいなどというところは教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが、己の水彩画における批評眼だけはたしかなものだ。主人はかくのごとく知(じち)の明(めい)あるにも関せずその惚(うぬぼれしん)はなかなか抜けない。中二日(なかふつか)置いて十二月四日の日記にこんなを書いている。

昨夜(ゆうべ)は僕が水彩画をかいて底物にならんと思って、そこらに抛(ほう)って置いたのを誰かが立派な額にして欄間(らんま)に懸(か)けてくれた夢を見た。さて額になったところを見ると我ながら急に手になった。非常に嬉しい。これなら立派なものだと独(ひと)りで眺め暮らしていると、夜が明けて眼が覚(さ)めてやはり元の通り手であるが朝日と共に明瞭になってしまった。

主人は夢の裡(うち)まで水彩画の未練を背負(しょ)ってあるいていると見える。これでは水彩画は無論夫子(ふうし)の所謂(いわゆる)通人にもなれない質(たち)だ。

主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁眼鏡(めがね)の者が久し振りで主人を訪問した。彼は座につくと劈頭(へきとう)一に「画(え)はどうかね」と口を切った。主人は平気な顔をして「君の忠告に従って写生を力(つと)めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよく分るようだ。西洋では昔(むか)しから写生を主張した結果今日(こんにち)のように発達したものと思われる。さすがアンドレア·デル·サルトだ」と日記のはおくびにもさないで、またアンドレア·デル·サルトに感する。者は笑いながら「実は君、あれは鱈目(でたらめ)だよ」と頭を掻(か)く。「何が」と主人はまだ (いつ)わられたに気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドレア·デル·サルトさ。あれは僕のちょっと捏造(ねつぞう)した話だ。君がそんなに真面目(まじめ)に信じようとは思わなかったハハハハ」と喜悦の体(てい)である。吾輩は椽側でこの対話を聞いて彼の今日の日記にはいかなるが記(しる)さるるであろうかと予(あらかじ)め像せざるをなかった。この者はこんな(いい)加減なを吹き散らして人を担(かつ)ぐのを唯一の楽(たのしみ)にしている男である。彼はアンドレア·デル·サルト件が主人の情線(じょうせん)にいかなる響を伝えたかを毫(ごう)も顧慮せざるもののごとく意になって(しも)のようなを饒舌(しゃべ)った。「いや時々冗談(じょうだん)を言うと人が真(ま)に受けるので(おおい)に滑稽的(こっけいてき)感を挑撥(ちょうはつ)するのは面白い。せんだってある生にニコラス·ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で版させたと言ったら、その生がまた馬鹿に記憶の善い男で、日本文の演説で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱にそれを傾聴しておった。それからまだ面白い話がある。せんだって或る文者のいる席でハリソンの歴史説セオファーノの話(はな)しがたから僕はあれは歴史説の中(うち)で白眉(はくび)である。ことに女主人公が死ぬところは鬼気(きき)人を襲うようだと評したら、僕の向うに坐っている知らんと云ったのない先生が、そうそうあすこは実に名文だといった。それで僕はこの男もやはり僕同様この説を読んでおらないというを知った」神経胃弱の主人は眼を丸くして問いかけた。「そんな鱈目(でたらめ)をいってもし相手が読んでいたらどうするつもりだ」あたかも人を欺(あざむ)くのは差支(さしつかえ)ない、ただ化(ばけ)の皮(かわ)があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。者は少しも動じない。「なにその時(とき)ゃ別の本と間違えたとか何とか云うばかりさ」と云ってけらけら笑っている。この者は金縁の眼鏡は掛けているがその質が車屋の黒に似たところがある。主人は黙って日のを輪に吹いて吾輩にはそんな勇気はないと云わんばかりの顔をしている。者はそれだから画(え)をかいても駄目だという目付で「しかし冗談(じょうだん)は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよ、レオナルド·ダ·ヴィンチは門生に寺院の壁のしみを写せと教えたがあるそうだ。なるほど雪隠(せついん)などに這入(はい)って雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画がにているぜ。君注意して写生して見給えきっと面白いものがるから」「また欺(だま)すのだろう」「いえこれだけはたしかだよ。実際奇警な語じゃないか、ダ·ヴィンチでもいいそうなだあね」「なるほど奇警には相違ないな」と主人は半分降参をした。しかし彼はまだ雪隠で写生はせぬようだ。

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