正文 二 - 3

寒月君と掛けた主人はどこをどう歩行(ある)いたものか、その晩遅く帰ってて、翌日食卓に就(つ)いたのは九時頃であった。例の御櫃のから拝見していると、主人はだまって雑煮(ぞうに)を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れはさいが、何でも六切(むきれ)か七切(ななきれ)食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸(はし)を置いた。他人がそんな我儘(わがまま)をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして意なる彼は、濁った汁の中に焦(こ)げ爛(ただ)れた餅の死骸を見て平気ですましている。妻君が袋戸(ふくろど)の奥からタカジヤスターゼをして卓のに置くと、主人は「それは利(き)かないから飲まん」という。「でもあなた澱粉質(でんぷんしつ)のものには変功があるそうですから、召しったらいいでしょう」と飲ませたがる。「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固(がんこ)にる。「あなたはほんとに厭(あ)きっぽい」と細君が独言(ひとりごと)のようにいう。「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句(ついく)のような返をする。「そんなに飲んだり止(や)めたりしちゃ、いくら功のある薬でも利く気遣(きづか)いはありません、もう少し辛防(しんぼう)がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた御三(おさん)を顧みる。「それは本のところでございます。もう少し召しってご覧にならないと、とても善(よ)い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非詰腹(つめばら)を切らせようとする。主人は何にも云わず立って書斎へ這入(はい)る。細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。こんなときに後(あと)からくっ付いて行って膝(ひざ)のへ乗ると、変な目に逢(あ)わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ(あが)って障子の隙(すき)から覗(のぞ)いて見ると、主人はエピクテタスとか云う人の本を披(ひら)いて見ておった。もしそれが平常(いつも)の通りわかるならちょっとえらいところがある。五六分するとその本を叩(たた)き付けるように机のへ抛(ほう)りす。方そんなだろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳をして(しも)のようなを書きつけた。

寒月と、根津、野、池(いけ)の端(はた)、神田辺(へん)を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着(はるぎ)をきて羽根をついていた。衣装(いしょう)はしいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。

何も顔のまずい例に特に吾輩をさなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって喜床(きたどこ)へ行って顔さえ剃(す)って貰(もら)やあ、そんなに人間と異(ちが)ったところはありゃしない。人間はこう惚(うぬぼ)れているから困る。

宝丹(ほうたん)の角(かど)を曲るとまた一人芸者がた。これは背(せい)のすらりとした撫肩(なでがた)の恰(かっこう)よくった女で、着ている薄紫の衣服(きもの)も素直に着こなされて品に見えた。白い歯をして笑いながら「源ちゃん昨夕(ゆうべ)は――つい忙がしかったもんだから」と云った。ただしその声は旅鴉(たびがらす)のごとく皺枯(しゃが)れておったので、せっかくの風采(ふうさい)も(おおい)に落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手(ふところで)のまま御(おなりみち)へた。寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。

人間の理ほど解(げ)し難いものはない。この主人の今のは怒(おこ)っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一(いちどう)の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ(まじ)りたいのだか、くだらぬに肝癪(かんしゃく)をしているのか、物外(ぶつがい)に超(ちょうぜん)としているのだかさっぱり見(けんとう)が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒(おこ)るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。一日記などという無のものは決してつけない。つける必がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間にされない己の面目を暗室内に発揮する必があるかも知れないが、我等猫属(ねこぞく)に至ると行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、行屎送尿(こうしそうにょう)ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数(てかず)をして、己(おの)れの真面目(しんめんもく)を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでのさ。

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