東風君は冷めたくなった茶をぐっと飲み干して「実は今日参りましたのは、少々先生に御願があって参ったので」と改まる。「はあ、何か御で」と主人も負けずに済（す）ます。「御承知の通り、文術がきなものですから……」「結構で」と油を注（さ）す。「同志だけがよりましてせんだってから朗読というのを組織しまして、毎月一回合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに一回は年の暮に開いたくらいであります」「ちょっと伺っておきますが、朗読と云うと何か節奏（ふし）でも附けて、詩歌（しいか）文章の類（るい）を読むように聞えますが、一体どんな風にやるんです」「まあ初めは古人のからはじめて、追々（おいおい）は同人の創なんかもやるつもりです」「古人のというと白楽（はくらくてん）の琵琶行（びわこう）のようなものででもあるんですか」「いいえ」「蕪村（ぶそん）の春風馬堤曲（しゅんぷうばていきょく）の種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだっては近松の中物（しんじゅうもの）をやりました」「近松？あの浄瑠璃（じょうるり）の近松ですか」近松に二人はない。近松といえば戯曲の近松に極（きま）っている。それを聞き直す主人はよほど愚（ぐ）だと思っていると、主人は何にも分らずに吾輩の頭を叮嚀（ていねい）に撫（な）でている。藪睨（やぶにら）みから惚（ほ）れられたと認している人間もある世の中だからこのくらいの誤謬（ごびゅう）は決して驚くに足らんと撫でらるるがままにすましていた。「ええ」と答えて東風子（とうふうし）は主人の顔色を窺（うかが）う。「それじゃ一人で朗読するのですか、または役割を極（き）めてやるんですか」「役を極めて懸合（かけあい）でやって見ました。その主意はなるべく中の人物に同情を持ってその格を発揮するのを一として、それに手真似や身振りを添えます。白（せりふ）はなるべくその時代の人を写しすのが主で、御嬢さんでも丁稚（でっち）でも、その人物がてきたようにやるんです」「じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか」「ええ衣装（いしょう）と書割（かきわり）がないくらいなものですな」「失礼ながらうまく行きますか」「まあ一回としては功した方だと思います」「それでこの前やったとおっしゃる中物というと」「その、船頭が御客を乗せて芳原（よしわら）へ行く所（とこ）なんで」「変な幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を傾（かたむ）ける。鼻から吹きした日のの煙りが耳を掠（かす）めて顔の横手へ廻る。「なあに、そんなに変なもないんです。登場の人物は御客と、船頭と、花魁（おいらん）と仲居（なかい）と遣手（やりて）と見番（けんばん）だけですから」と東風子は平気なものである。主人は花魁という名をきいてちょっと苦（にが）い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えてまず質問を呈した。「仲居というのは娼（しょうか）の婢（かひ）にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の女で、遣手というのが女部屋（おんなべや）の助役（じょやく）見たようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物がてるように仮色（こわいろ）を使うと云った癖に遣手や仲居の格をよく解しておらんらしい。「なるほど仲居は茶屋に隷属（れいぞく）するもので、遣手は娼に臥（きが）する者ですね。次に見番と云うのは人間ですかまたは一定の場所を指（さ）すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を司（つかさ）どっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが届いておりません。その内調べて見ましょう」これで懸合をやった日には頓珍漢（とんちんかん）なものがるだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見げた。主人は存外真面目である。「それで朗読は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。花魁が法士のＫ君でしたが、口髯（くちひげ）を生やして、女の甘ったるいせりふを使（つ）かうのですからちょっと妙でした。それにその花魁が癪（しゃく）をすところがあるので……」「朗読でも癪をさなくっちゃ、いけないんですか」と主人は配そうに尋ねる。「ええとにかく表情がですから」と東風子はどこまでも文芸の気でいる。「うまく癪がりましたか」と主人は警句を吐く。「癪だけは一回には、ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。「ところで君は何の役割でした」と主人が聞く。「（わたく）しは船頭」「へー、君が船頭」君にして船頭が務（つと）まるものなら僕にも見番くらいはやれると云ったような語気を洩（も）らす。やがて「船頭は無理でしたか」と御世辞のないところを打ち明ける。東風子は別段癪に障った様子もない。やはり沈着な口調で「その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾（りゅうとうだび）に終りました。実は場の隣りに女生が四五人宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読があるというを、どこかで探知して場の窓へて傍聴していたものと見えます。（わたく）しが船頭の仮色（こわいろ）を使って、ようやく調子づいてこれなら丈夫と思って意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐（こ）らえていた女生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいたも驚ろいたし、極（きま）りが悪（わ）るいも悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後（あと）がつづけられないので、とうとうそれ限（ぎ）りで散しました」一回としては功だと称する朗読がこれでは、失敗はどんなものだろうと像すると笑わずにはいられない。覚えず咽喉仏（のどぼとけ）がごろごろ鳴る。主人はいよいよ柔かに頭を撫（な）でてくれる。人を笑って愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。「それは飛んだで」と主人は正月早々弔詞（ちょうじ）を述べている。「二回からは、もっと奮発して盛にやるつもりなので、今日ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入の御尽力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんかせませんよ」と消極的の主人はすぐに断わりかける。「いえ、癪などはしていただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と云いながら紫の風呂敷からそうに菊版（こぎくばん）の帳面をす。「これへどうか御署名の御捺印（ごなついん）を願いたいので」と帳面を主人の膝（ひざ）の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文博士、文士連中の名が行儀よく勢揃（せいぞろい）をしている。「はあ賛員にならんもありませんが、どんな義務があるのですか」と牡蠣先生（かきせんせい）は掛念（けねん）の体（てい）に見える。「義務と申して別段是非願うもないくらいで、ただ御名前だけを御記入さって賛の意さえ御表（おひょう）し被（くださ）ればそれで結構です」「そんなら這入（はい）ります」と義務のかからぬを知るや否や主人は急に気軽になる。責任さえないと云うが分っておれば謀叛（むほん）の連判状へでも名を書き入れますと云う顔付をする。加（のみならず）こう知名の者が名前を列（つら）ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんなに合ったのない主人にとっては無の光栄であるから返の勢のあるのも無理はない。「ちょっと失敬」と主人は書斎へ印をとりに這入る。吾輩はぼたりと畳のへ落ちる。東風子は菓子皿の中のカステラをつまんで一口に頬張（ほおば）る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。吾輩は今朝の雑煮（ぞうに）件をちょっと思いす。主人が書斎から印形（いんぎょう）を持っててた時は、東風子の胃の中にカステラが落ちついた時であった。主人は菓子皿のカステラが一切（ひときれ）足りなくなったには気が着かぬらしい。もし気がつくとすれば一に疑われるものは吾輩であろう。
東風子が帰ってから、主人が書斎に入って机のを見ると、いつの間（ま）にか迷亭先生の手紙がている。