正文 二 - 10

「廿世紀の今日(こんにち)通の頻繁(ひんぱん)、宴の増加は申す迄もなく、軍国征露の二年とも相候折柄(そろおりから)、吾人戦勝国の国民は、是非共羅馬(ローマ)人に傚(なら)って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機に着致し候(そろ)と信致候(いたしそろ)。左(さ)もなくば切角(せっかく)の国民も近き将に於て悉(ことごと)く兄のく胃病患者と相ると窃(ひそ)かに痛罷(まか)りあり候(そろ)……」

また兄のごとくか、癪(しゃく)に障(さわ)る男だと主人が思う。

「此際吾人西洋の情に通ずる者が古史伝説を考究し、既に廃絶せる秘法を発見し、を明治の社に応致し候わば所謂(いわば)禍(わざわい)を未萌(みほう)に防ぐの功徳(くどく)にも相り平素逸楽(いつらく)を擅(ほしいまま)に致し候(そろ)御恩返も相立ち申(もうすべく)と存候(ぞんじそろ)……」

何だか妙だなと首を捻(ひね)る。

「依(よっ)て此間中(じゅう)よりギボン、モンセン、スミス等諸の著述を渉猟(しょうりょう)致し居候(おりそうら)えども未(いま)だに発見の端緒(たんしょ)をも見(みいだ)しざるは残念の至に存候(ぞんじそろ)。し御存じのく生は一度思い立ち候(そろこと)は功するまでは決して中絶仕(つかまつ)らざる質に候えば嘔吐方(おうとほう)を再興致し候(そろ)も遠からぬうちと信じ居り候(そろ)次。右は発見次御報仕候(つかまつるべくそろ)につき、左様御承知被候(くださるべくそろ)。就(つい)てはさきに申候(そろ)トチメンボー及び孔雀の舌の御馳走も相(あいなるべく)は右発見後に致し度(たく)、左(さ)すれば生の合は勿論(もちろん)、既に胃弱に悩み居らるる兄の為にも御便宜(ごべんぎ)かと存候(ぞんじそろ)草々不備」

何だとうとう担(かつ)がれたのか、あまり書き方が真面目だものだからつい仕舞(しまい)まで本気にして読んでいた。新年匆々(そうそう)こんな悪戯(いたずら)をやる迷亭はよっぽどひま人だなあと主人は笑いながら云った。

それから四五日は別段のもなく過ぎった。白磁(はくじ)の水仙がだんだん凋(しぼ)んで、青軸(あおじく)の梅が瓶(びん)ながらだんだん開きかかるのを眺め暮らしてばかりいてもつまらんと思って、一両度(いちりょうど)三毛子を訪問して見たが逢(あ)われない。最初は留守だと思ったが、二返目(へんめ)には病気で寝ているというが知れた。障子の中で例の御師匠さんと女が話しをしているのを手水鉢(ちょうずばち)の葉蘭の影に隠れて聞いているとこうであった。

「三毛は御飯をたべるかい」「いいえ今朝からまだ何(なん)にも食べません、あったかにして御火燵(おこた)に寝かしておきました」何だか猫らしくない。まるで人間の取扱を受けている。

一方では分の境遇と比べて見て羨(うらや)ましくもあるが、一方では己(おの)が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。

「どうも困るね、御飯をたべないと、身体(からだ)が疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、共でさえ一日御 (ごぜん)をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」

女は分より猫の方が等な動物であるような返をする。実際この(うち)では女より猫の方が切かも知れない。

「御医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。が三毛をだいて診察場へ行くと、風邪(かぜ)でも引いたのかっての脈(みゃく)をとろうとするんでしょう。いえ病人はではございません。これですって三毛を膝のへ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、抛(ほう)っておいたら今に癒(なお)るだろうってんですもの、あんまり苛(ひど)いじゃございませんか。腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくってもようございますこれでもの猫なんですって、三毛を懐(ふところ)へ入れてさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」

「ほんにねえ」は底(とうてい)吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。やはり璋院(てんしょういん)様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ雅(が)であると感した。

「何だかしくしく云うようだが……」「ええきっと風邪を引いて咽喉(のど)が痛むんでございますよ。風邪を引くと、どなたでも御咳(おせき)がますからね……」

璋院様の何とかの何とかの女だけに馬鹿叮嚀(ていねい)な言葉を使う。

「それに近頃は肺病とか云うものがてのう」「ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり殖(ふ)えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代に無い者に碌(ろく)な者はないから御前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」

女は(おおい)に感動している。

「風邪(かぜ)を引くといってもあまりあるきもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近頃は悪い友達がましてね」

女は国の秘密でも語る時のように意である。

「悪い友達?」「ええあの表通りの教師の所(とこ)にいる薄ぎたない雄猫(おねこ)でございますよ」「教師と云うのは、あの毎朝無法な声をす人かえ」「ええ顔を洗うたんびに鵝鳥(がちょう)が絞(し)め殺されるような声をす人でござんす」

鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。吾輩の主人は毎朝風呂場で含嗽(うがい)をやる時、楊枝(ようじ)で咽喉(のど)をつっ突いて妙な声を無遠慮にす癖がある。機嫌の悪い時はやけにがあがあやる、機嫌のい時は元気づいてなおがあがあやる。つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よくがあがあやる。細君の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやりしてから今日(きょう)まで一日もやめたがないという。ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんなを根気よく続けているのか吾等猫などには底(とうてい)像もつかん。それもまず善いとして「薄ぎたない猫」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。

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