正文 二 - 13

「鴻(こう)の台(だい)のは鐘懸(かねかけ)の松で、土手三番町のは首懸(くびかけ)の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔(むか)しからの言い伝えで誰でもこの松のへると首が縊(くく)りたくなる。土手のに松は何十本となくあるが、そら首縊(くびくく)りだとて見ると必ずこの松へぶらがっている。年に二三返(べん)はきっとぶらがっている。どうしても他(ほか)の松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往の方へ横にている。ああい枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間をげて見たい、誰かないかしらと、四辺(あたり)を見渡すと生憎(あいにく)誰もない。仕方がない、分でがろうか知らん。いやいや分ががっては命がない、危(あぶ)ないからよそう。しかし昔の希臘人(ギリシャじん)は宴の席で首縊(くびくく)りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。一人が台のへ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他(ほか)のものが台を蹴返す。首を入れた人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛びりるという趣向(しゅこう)である。果してそれが実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見るとい具合に撓(しわ)る。撓り按排(あんばい)が実に的である。首がかかってふわふわするところを像して見ると嬉しくてたまらん。是非やるにしようと思ったが、もし東風(とうふう)がて待っていると気の毒だと考えした。それではまず東風(とうふう)に逢(あ)って約束通り話しをして、それから直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」

「それで市(いち)が栄えたのかい」と主人が聞く。

「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。

「うちへ帰って見ると東風はていない。しかし今日(こんにち)は無拠処(よんどころなき)差支(さしつか)えがあってられぬ、いずれ永日(えいじつ)御面晤(ごめんご)を期すという端書(はがき)があったので、やっと安して、これなら置きなく首が縊(くく)れる嬉しいと思った。で早速駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」と云って主人と寒月の顔を見てすましている。

「見るとどうしたんだい」と主人は少し焦(じ)れる。

「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織の紐(ひも)をひねくる。

「見ると、もう誰かて先へぶらがっている。たった一足違いでねえ君、残念なをしたよ。考えると何でもその時は死神(しにがみ)に取り着かれたんだね。ゼームスなどに云わせると副意識の幽冥界(ゆうめいかい)と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応(かんのう)したんだろう。実に不思議ながあるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。

主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空餅(くうやもち)を頬張(ほおば)って口をもごもご云わしている。

寒月は火鉢の灰を丁寧に掻(か)き馴(な)らして、俯向(うつむ)いてにやにや笑っていたが、やがて口を開く。極めて静かな調子である。

「なるほど伺って見ると不思議なでちょっと有りそうにも思われませんが、などは分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑がう気になりません」

「おや君も首を縊(くく)りたくなったのかい」

「いえのは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮のでしかも先生と同日同刻くらいにったですからなおさら不思議に思われます」

「こりゃ面白い」と迷亭も空餅を頬張る。

「その日は向島の知人の(うち)で忘年兼(けん)合奏がありまして、もそれへヴァイオリンを携(たずさ)えて行きました。十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛で、近の快と思うくらいに万が整っていました。晩餐(ばんさん)もすみ合奏もすんで四方(よも)の話しがて時刻も分(だいぶ)遅くなったから、もう暇乞(いとまご)いをして帰ろうかと思っていますと、某博士の夫人がのそばへてあなたは○○子さんの御病気を御承知ですかと声で聞きますので、実はその両三日前(りょうさんにちまえ)に逢った時は平常の通りどこも悪いようには見受けませんでしたから、も驚ろいて精(くわ)しく様子を聞いて見ますと、(わたく)しの逢ったその晩から急に発熱して、いろいろな譫語(うわごと)を絶間なく口走(くちばし)るそうで、それだけなら宜(い)いですがその譫語のうちにの名が時々てるというのです」

主人は無論、迷亭先生も「御安(おやす)くないね」などという月並(つきなみ)は云わず、静粛に謹聴している。

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