正文 二 - 14

「医者を呼んで見てもらうと、何だか病名はわからんが、何しろ熱が劇(はげ)しいので脳を犯しているから、もし睡眠剤(すいみんざい)が思うように功を奏しないと危険であると云う診断だそうではそれを聞くや否や一種いやな感じがったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって四方から吾が身をしめつけるごとく思われました。帰りにもそのばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あの奇麗な、あの快活なあの健康な○○子さんが……」

「ちょっと失敬だが待ってくれ給え。さっきから伺っていると○○子さんと云うのが二返(へん)ばかり聞えるようだが、もし差支(さしつか)えがなければ承(うけたま)わりたいね、君」と主人を顧(かえり)みると、主人も「うむ」と生返(なまへんじ)をする。

「いやそれだけは人の迷惑になるかも知れませんから廃(よ)しましょう」

「すべて曖々(あいあいぜん)として昧々(まいまいぜん)たるかたで行くつもりかね」

「冷笑なさってはいけません、極真面目(ごくまじめ)な話しなんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になったを考えると、実に飛花落葉(ひからくよう)の感慨でが一杯になって、総身(そうしん)の活気が一度にストライキをしたように元気がにわかに滅入(めい)ってしまいまして、ただ蹌々(そうそう)として踉々(ろうろう)という形(かた)ちで吾妻橋(あずまばし)へきかかったのです。欄干に倚(よ)ってを見ると満潮(まんちょう)か干潮(かんちょう)か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。花川戸(はなかわど)の方から人力車が一台馳(か)けてて橋のを通りました。その提灯(ちょうちん)の火を見送っていると、だんだんくなって札幌(さっぽろ)ビールの処で消えました。はまた水を見る。すると遥(はる)かの川の方での名を呼ぶ声が聞えるのです。はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面(おもて)をすかして見ましたが暗くて何(なん)にも分りません。気のせいに違いない早々(そうそう)帰ろうと思って一足二足あるきすと、また微(かす)かな声で遠くからの名を呼ぶのです。はまた立ち留って耳を立てて聞きました。三度目に呼ばれた時には欄干に捕(つか)まっていながら膝頭(ひざがしら)ががくがく悸(ふる)えしたのです。その声は遠くの方か、川の底からるようですが紛(まぎ)れもない○○子の声なんでしょう。は覚えず「はーい」と返をしたのです。その返がきかったものですから静かな水に響いて、分で分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も月も何(なん)にも見えません。その時にはこの「夜(よる)」の中に巻き込まれて、あの声のる所へ行きたいと云う気がむらむらとったのです。○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるようにの耳を刺し通したので、今度は「今直(すぐ)に行きます」と答えて欄干から半身をして黒い水を眺めました。どうもを呼ぶ声が浪(なみ)のから無理に洩(も)れてるように思われましてね。この水のだなと思いながらはとうとう欄干のに乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決して流を見つめているとまた憐れな声が糸のように浮いてる。ここだと思って力を込めて一反(いったん)飛びがっておいて、そして石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」

「とうとう飛び込んだのかい」と主人が眼をぱちつかせて問う。

「そこまで行こうとは思わなかった」と迷亭が分の鼻の頭をちょいとつまむ。

「飛び込んだ後(あと)は気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて眼がさめて見ると寒くはあるが、どこも濡(ぬ)れた所(とこ)も何もない、水を飲んだような感じもしない。たしかに飛び込んだはずだが実に不思議だ。こりゃ変だと気が付いてそこいらを見渡すと驚きましたね。水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋の真中へ飛びりたので、その時は実に残念でした。前と後(うし)ろの間違だけであの声のる所へ行くがなかったのです」寒月はにやにや笑いながら例のごとく羽織の紐(ひも)を荷厄介(にやっかい)にしている。

「ハハハハこれは面白い。僕の経験と善く似ているところが奇だ。やはりゼームス教授の材料になるね。人間の感応と云う題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」と迷亭先生が追窮する。

「二三日前(にさんちまえ)年始に行きましたら、門の内で女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます」

主人は最前から沈思の体(てい)であったが、この時ようやく口を開いて、「僕にもある」と負けぬ気をす。

「あるって、何があるんだい」迷亭の眼中に主人などは無論ない。

「僕のも年の暮のだ」

「みんな年の暮は暗合(あんごう)で妙ですな」と寒月が笑う。欠けた前歯のうちに空餅(くうやもち)が着いている。

「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。

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