「いや日は違うようだ。何でも二十日（はつか）頃だよ。細君が御歳暮の代りに摂津掾（せっつだいじょう）を聞かしてくれろと云うから、連れて行ってやらんもないが今日の語り物は何だと聞いたら、細君が新聞を参考して鰻谷（うなぎだに）だと云うのさ。鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。翌日になると細君がまた新聞を持ってて今日は堀川（ほりかわ）だからいいでしょうと云う。堀川は三味線もので賑やかなばかりで実（み）がないからよそうと云うと、細君は不平な顔をして引きがった。その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、は是非摂津（せっつ）の三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、に聞かせるのだからいっしょに行ってすっても宜（い）いでしょうと手詰（てづめ）の談判をする。御前がそんなに行きたいなら行っても宜（よ）ろしい、しかし一世一代と云うので変な入だから底（とうてい）突懸（つっか）けに行ったって這入（はい）れる気遣（きづか）いはない。元ああ云う場所へ行くには茶屋と云うものが在（あ）ってそれと渉して相の席を予約するのが正の手続きだから、それを踏まないで常規をしたをするのはよくない、残念だが今日はやめようと云うと、細君は凄（すご）い眼付をして、は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが、原のお母あさんも、鈴木の君代さんも正の手続きを踏まないで立派に聞いてたんですから、いくらあなたが教師だからって、そう手数（てすう）のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声をす。それじゃ駄目でもまあ行くにしよう。晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ這入れないからですと鈴木の君代さんから教えられた通りを述べる。それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、ええ駄目ですともと答える。すると君不思議なにはその時から急に悪寒（おかん）がししてね」
「奥さんがですか」と寒月が聞く。
「なに細君はぴんぴんしていらあね。僕がさ。何だかの明いた風船玉のように一度に萎縮（いしゅく）する感じがると思うと、もう眼がぐらぐらして動けなくなった」
「急病だね」と迷亭が註釈を加える。
「ああ困ったになった。細君が年に一度の願だから是非叶（かな）えてやりたい。平生（いつも）叱りつけたり、口を聞かなかったり、身（しんしょう）の苦労をさせたり、供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水（さいそうしんすい）の労に酬（むく）いたはない。今日は幸い時間もある、嚢中（のうちゅう）には四五枚の堵物（とぶつ）もある。連れて行けば行かれる。細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴（くつぬぎ）へ降りるもない。ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木（あまき）医士を迎いにやると生憎（あいにく）昨夜（ゆうべ）が番でまだから帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次すぐげますと云う返である。困ったなあ、今杏仁水（きょうにんすい）でも飲めば四時前にはきっと癒（なお）るに極（きま）っているんだが、運の悪い時には何も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外（はず）れそうになってる。細君は恨（うら）めしい顔付をして、底（とうてい）いらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直って見せるから安しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では云ったようなものの中は無限の感慨である。悪寒はますます劇（はげ）しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を履行（りこう）するがなかったら、気の狭い女のだから何をするかも知れない。情（なさ）けない仕儀になってた。どうしたら善かろう。万一のを考えると今の内に有為転変（ういてんぺん）の理、生者必滅（しょうじゃひつめつ）のを説き聞かして、もしもの変がった時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、夫（おっと）の妻（つま）に対する義務ではあるまいかと考えした。僕は速（すみや）かに細君を書斎へ呼んだよ。呼んで御前は女だけれども many a slip twixt the cup and the lip と云う西洋の諺（ことわざ）くらいはているだろうと聞くと、そんな横文字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから、宜（よろ）しゅうございます、どうせ英語なんかはないんですから、そんなに英語が御きなら、なぜ耶蘇校（ヤソがっこう）の卒業生かなんかをお貰いなさらなかったんです。あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕（けんまく）なんで、僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。全く妻（さい）を愛する至情からたので、それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。それにさっきからの悪寒（おかん）と眩暈（めまい）で少し脳が乱れていたところへもってて、早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し急（せ）き込んだものだから、つい細君の英語を知らないと云うを忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。考えるとこれは僕が悪（わ）るい、全く手落ちであった。この失敗で悪寒はますます強くなる。眼はいよいよぐらぐらする。妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌（もろはだ）をいで御化粧をして、箪笥（たんす）から着物をして着換える。もういつでも掛けられますと云う風情（ふぜい）で待ち構えている。僕は気が気でない。早く甘木君がてくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。四時にはもう一時間しかない。「そろそろ掛けましょうか」と妻君が書斎の開き戸を明けて顔をす。分の妻（さい）を褒（ほ）めるのはおかしいようであるが、僕はこの時ほど細君をしいと思ったはなかった。もろ肌をいで石鹸で磨（みが）きげた皮膚がぴかついて黒縮緬（くろちりめん）の羽織と反映している。その顔が石鹸と摂津掾（せっつだいじょう）を聞こうと云う希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。どうしてもその希望を満足させて掛けてやろうと云う気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生がた。うまい注文通りに行った。が容体をはなすと、甘木先生は僕の舌を眺（なが）めて、手を握って、を敲（たた）いて背を撫（な）でて、目縁（まぶち）を引っ繰り返して、頭蓋骨（ずがいこつ）をさすって、しばらく考え込んでいる。「どうも少し険呑（けんのん）のような気がしまして」と僕が云うと、先生は落ちついて、「いえ格別のもございますまい」と云う。「あのちょっとくらい外致しても差支（さしつか）えはございますまいね」と細君が聞く。「さよう」と先生はまた考え込む。「御気分さえ御悪くなければ……」「気分は悪いですよ」と僕がいう。「じゃともかくも頓服（とんぷく）と水薬（すいやく）をげますから」「へえどうか、何だかちと、危（あぶ）ないようになりそうですな」「いや決して御配になるほどのじゃございません、神経を御しになるといけませんよ」と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。女を薬取りにやる。細君の厳命で馳（か）けして行って、馳（か）けして返ってくる。四時十五分前である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前頃から、今まで何とも無かったのに、急に嘔気（はきけ）を催（もよ）おしてた。細君は水薬（すいやく）を茶碗へ注（つ）いで僕の前へ置いてくれたから、茶碗を取りげて飲もうとすると、胃の中からげーと云う者が吶喊（とっかん）しててくる。やむをえず茶碗をへ置く。細君は「早く御飲（おの）みになったら宜（い）い
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