正文 三 - 4

それから約七分くらいすると注文通り寒月君がる。今日は晩に演舌(えんぜつ)をするというので例になく立派なフロックを着て、洗濯し立ての白襟(カラー)を聳(そび)やかして、男振りを二割方げて、「少し後(おく)れまして」と落ちつき払って、挨拶をする。「さっきから二人で待ちに待ったところなんだ。早速願おう、なあ君」と主人を見る。主人もやむをず「うむ」と生返(なまへんじ)をする。寒月君はいそがない。「コップへ水を一杯頂戴しましょう」と云う。「いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう」と迷亭は独りで騒ぎ立てる。寒月君は内隠(うちがく)しから草稿を取りして徐(おもむ)ろに「稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置をして、いよいよ演舌の御浚(おさら)いを始める。

「罪人を絞罪(こうざい)の刑に処すると云うは重(おも)にアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代に溯(さかのぼ)って考えますと首縊(くびくく)りは重に殺の方法として行われた者であります。猶太人中(ユダヤじんちゅう)に在(あ)っては罪人を石を抛(な)げつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または食鳥の餌食(えじき)とする意義と認められます。ヘロドタスの説に従って見ますと猶太人(ユダヤじん)はエジプトをる前から夜中(やちゅう)死骸を曝(さら)されることを痛く忌(い)み嫌ったように思われます。エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘付(くぎづ)けにして夜中曝し物にしたそうで御座います。波斯人(ペルシャじん)は……」「寒月君首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが丈夫かい」と迷亭が口を入れる。「これから本論に這入(はい)るところですから、少々御辛防(ごしんぼう)を願います。……さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には磔(はりつけ)をいたようでございます。但し生きているうちに張付(はりつ)けに致したものか、死んでから釘を打ったものかその辺(へん)はちと分りかねます……」「そんなは分らんでもいいさ」と主人は退屈そうに欠伸(あくび)をする。「まだいろいろ御話し致したいもございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうの方が聞きいいよ、ねえ苦沙弥君(くしゃみくん)」とまた迷亭が咎(とが)め立(だて)をすると主人は「どっちでも同じだ」と気のない返をする。「さていよいよ本題に入りまして弁じます」「弁じますなんか講釈師の云い草だ。演舌はもっと品な詞(ことば)を使って貰いたいね」と迷亭先生また(ま)ぜ返す。「弁じますが品なら何と云ったらいいでしょう」と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。「迷亭のは聴いているのか、(ま)ぜ返しているのか判しない。寒月君そんな弥次馬(やじうま)に構わず、さっさとやるがい」と主人はなるべく早く難関を切り抜けようとする。「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と迷亭はあいかわらず飄(ひょうぜん)たるを云う。寒月は思わず吹きす。「真に処刑として絞殺をいましたのは、の調べました結果によりますると、オディセーの二十二巻目にております。即(すなわ)ち彼(か)のテレマカスがペネロピーの十二人の侍女を絞殺するという条(くだ)りでございます。希臘語(ギリシャご)で本文を朗読しても宜(よろ)しゅうございますが、ちと衒(てら)うような気味にもなりますからやめに致します。四百六十五行から、四百七十三行を御覧になると分ります」「希臘語云々(うんぬん)はよした方がいい、さも希臘語がますと云わんばかりだ、ねえ苦沙弥君」「それは僕も賛だ、そんな物しそうなは言わん方が奥床(おくゆか)しくてい」と主人はいつになく直ちに迷亭に加担する。両人(りょうにん)は毫(ごう)も希臘語が読めないのである。「それではこの両三句は今晩抜くに致しまして次を弁じ――ええ申しげます。

この絞殺を今から像して見ますと、これを執行するに二つの方法があります。一は、彼(か)のテレマカスがユーミアス及びフ リーシャスの援(たすけ)を藉(か)りて縄の一端を柱へ括(くく)りつけます。そしてその縄の所々へ結び目をに開けてこのへ女の頭を一つずつ入れておいて、片方の端(はじ)をぐいと引張って釣しげたものと見るのです」「つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶらったと見ればいんだろう」「その通りで、それから二は縄の一端を前のごとく柱へ括(くく)り付けて他の一端も始めから井へ高く釣るのです。そしてその高い縄から何本か別の縄をげて、それに結び目の輪になったのを付けて女の頸(くび)を入れておいて、いざと云う時に女の足台を取りはずすと云う趣向なのです」「たとえて云うと縄暖簾(なわのれん)の先へ提灯玉(ちょうちんだま)を釣したような景色(けしき)と思えば間違はあるまい」「提灯玉と云う玉は見たがないから何とも申されませんが、もしあるとすればその辺(へん)のところかと思います。――それでこれから力的に一の場合は底立すべきものでないと云うを証拠立てて御覧に入れます」「面白いな」と迷亭が云うと「うん面白い」と主人も一致する。

「まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番面に近い二人の女の首と首を繋(つな)いでいる縄はホリゾンタルと仮定します。そこでα1α2……α6を縄が平線と形づくる角度とし、T1T2……T6を縄の各部が受ける力と見做(みな)し、T7=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは勿論(もちろん)女の体重と御承知さい。どうです御分りになりましたか」

迷亭と主人は顔を見合せて「抵分った」と云う。但しこの抵と云う度合は両人(りょうにん)が勝手にったのだから他人の場合には応がないかも知れない。「さて角形に関する御存じの平均理論によりますと、(しも)のごとく十二の方程式が立ちます。T1cosα1=T2cosα2…… (1) T2cosα2=T3cosα3…… (2) ……]」「方程式はそのくらいで沢山だろう」と主人は乱暴なを云う。「実はこの式が演説の首脳なんですが」と寒月君ははなはだ残り惜し気に見える。「それじゃ首脳だけは逐(お)って伺うにしようじゃないか」と迷亭も少々恐縮の体(てい)に見受けられる。「この式を略してしまうとせっかくの力的研究がまるで駄目になるのですが……」「何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ……」と主人は平気で云う。「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう」「それがよかろう」と迷亭が妙なところで手をぱちぱちと叩く。

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