正文 三 - 7

主人は無論、さすがの迷亭もこの不意撃(ふいうち)には胆(きも)を抜かれたものと見えて、しばらくは呆(ぼうぜん)として瘧(おこり)の落ちた病人のように坐っていたが、驚愕(きょうがく)の箍(たが)がゆるんでだんだん持前の本態に復すると共に、滑稽と云う感じが一度に吶喊(とっかん)してくる。両人(ふたり)は申し合せたごとく「ハハハハハ」と笑い崩れる。鼻子ばかりは少してがはずれて、この際笑うのははなはだ失礼だと両人を睨(にら)みつける。「あれが御嬢さんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃる通りだ、ねえ苦沙弥(くしゃみ)君、全く寒月はお嬢さんを恋(おも)ってるに相違ないね……もう隠したってしようがないから白状しようじゃないか」「ウフン」と主人は云ったままである。「本に御隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと種はってるんですからね」と鼻子はまた意になる。「こうなりゃ仕方がない。何でも寒月君に関する実は御参考のために陳述するさ、おい苦沙弥君、君が主人だのに、そう、にやにや笑っていては埒(らち)があかんじゃないか、実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠しても、どこからか露見(ろけん)するからな。――しかし不思議と云えば不思議ですねえ、金田の奥さん、どうしてこの秘密を御探知になったんです、実に驚ろきますな」と迷亭は一人で喋舌(しゃべ)る。「(わた)しの方だって、ぬかりはありませんやね」と鼻子はしたり顔をする。「あんまり、ぬかりが無さ過ぎるようですぜ。一体誰に御聞きになったんです」「じきこの裏にいる車屋の神(かみ)さんからです」「あの黒猫のいる車屋ですか」と主人は眼を丸くする。「ええ、寒月さんのじゃ、よっぽど使いましたよ。寒月さんが、ここへる度に、どんな話しをするかと思って車屋の神さんを頼んで一々知らせて貰うんです」「そりゃ苛(ひど)い」と主人はきな声をす。「なあに、あなたが何をなさろうとおっしゃろうと、それに構ってるんじゃないんです。寒月さんのだけですよ」「寒月のだって、誰のだって――全体あの車屋の神さんは気に食わん奴だ」と主人は一人怒(おこ)りす。「しかしあなたの垣根のそとへて立っているのは向うの勝手じゃありませんか、話しが聞えてわるけりゃもっとさい声でなさるか、もっときなうちへ御這入(おはい)んなさるがいいでしょう」と鼻子は少しも赤面した様子がない。「車屋ばかりじゃありません。新(しんみち)の二絃琴(にげんきん)の師匠からも分(だいぶ)いろいろなを聞いています」「寒月のをですか」「寒月さんばかりのじゃありません」と少し凄(すご)いを云う。主人は恐れ入るかと思うと「あの師匠はいやに品ぶって分だけ人間らしい顔をしている、馬鹿野郎です」「憚(はばか)り様(さま)、女ですよ。野郎は御門違(おかどちが)いです」と鼻子の言葉使いはますます御(おさと)をあらわしてる。これではまるで喧嘩をしにたようなものであるが、そこへ行くと迷亭はやはり迷亭でこの談判を面白そうに聞いている。鉄枴仙人(てっかいせんにん)が軍鶏(しゃも)の蹴合(けあ)いを見るような顔をして平気で聞いている。

悪口(あっこう)の換では底鼻子の敵でないと覚した主人は、しばらく沈黙を守るのやむをざるに至らしめられていたが、ようやく思い付いたか「あなたは寒月の方から御嬢さんに恋着したようにばかりおっしゃるが、(わたし)の聞いたんじゃ、少し違いますぜ、ねえ迷亭君」と迷亭の救いを求める。「うん、あの時の話しじゃ御嬢さんの方が、始め病気になって――何だか譫語(うわごと)をいったように聞いたね」「なにそんなはありません」と金田夫人は判たる直線流の言葉使いをする。「それでも寒月はたしかに○○博士の夫人から聞いたと云っていましたぜ」「それがこっちの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いて見たんでさあね」「○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか」「ええ。引き受けて貰うたって、ただじゃませんやね、それやこれやでいろいろ物を使っているんですから」「是非寒月君のを根堀り葉堀り御聞きにならなくっちゃ御帰りにならないと云う決ですかね」と迷亭も少し気持を悪くしたと見えて、いつになく手障(てざわ)りのあらい言葉を使う。「いいや君、話したって損の行くじゃなし、話そうじゃないか苦沙弥君――奥さん、(わたし)でも苦沙弥でも寒月君に関する実で差支(さしつか)えのないは、みんな話しますからね、――そう、順を立ててだんだん聞いてさると合がいいですね」

鼻子はようやく納(なっとく)してそろそろ質問を呈する。一時荒立てた言葉使いも迷亭に対してはまたもとのごとく叮嚀になる。「寒月さんも理士だそうですが、全体どんなを専門にしているのでございます」「院では球の磁気の研究をやっています」と主人が真面目に答える。不幸にしてその意味が鼻子には分らんものだから「へえー」とは云ったが怪訝(けげん)な顔をしている。「それを勉強すると博士になれましょうか」と聞く。「博士にならなければやれないとおっしゃるんですか」と主人は不愉快そうに尋ねる。「ええ。ただの士じゃね、いくらでもありますからね」と鼻子は平気で答える。主人は迷亭を見ていよいよいやな顔をする。「博士になるかならんかは僕等も保証するがんから、ほかのを聞いていただくにしよう」と迷亭もあまりい機嫌ではない。「近頃でもその球の――何かを勉強しているんでございましょうか」「二三日前(にさんちまえ)は首縊りの力と云う研究の結果を理協で演説しました」と主人は何の気も付かずに云う。「おやいやだ、首縊りだなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊りや何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」「本人が首を縊(くく)っちゃあむずかしいですが、首縊りの力なられないとも限らんです」「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色を窺(うかが)う。悲しいに力と云う意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきのを尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で八卦(はっけ)を立てて見る。主人の顔は渋い。「そのほかになにか、分り易(やす)いものを勉強しておりますまいか」「そうですな、せんだって団栗のスタビリチーを論じて併せて体の運行に及ぶと云う論文を書いたがあります」「団栗(どんぐり)なんぞでも校で勉強するものでしょうか」「さあ僕も素人(しろうと)だからよく分らんが、何しろ、寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな」と迷亭はすまして冷かす。鼻子は問の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。「御話は違いますが――この御正月に椎茸(しいたけ)を食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか」「ええその欠けたところに空餅(くうやもち)がくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそ吾縄張内(なわばりうち)だと急に浮かれす。「色気のない人じゃございませんか、何だって楊子(ようじ)を使わないんでしょう」「今度逢(あ)ったら注意しておきましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯がかけるくらいじゃ、よほど歯の(しょう)が悪いと思われますが、何(いかが)なものでしょう」「善いとは言われますまいな――ねえ迷亭」「善いはないがちょっと愛嬌(あいきょう)があるよ。あれぎり、まだ填(つ)めないところが妙だ。今だに空餅引掛所(ひっかけどころ)になってるなあ奇観だぜ」「歯を填める遣(こづかい)がないので欠けなりにしておくんですか、または物きで欠けなりにしておくんでしょうか」「何も永く前歯欠(まえばかけなり)を名乗る訳でもないでしょうから御安なさいよ」と迷亭の機嫌はだんだん回復してくる。鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「端書(はがき)なら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三四十枚持ってる。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ……」「どれどれ僕がいのを撰(よ)ってやろう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書をす。「おや絵もかくんでございますか、なかなか器ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていた

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