正文 三 - 8

主人は不満な口気(こうき)で「一気に喰わん顔だ」と悪(にく)らしそうに云うと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って乙(おつ)に構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫背(ねこぜ)だね。猫背の鼻は、ちと奇抜(きばつ)過ぎる」と面白そうに笑う。「夫(おっと)を剋(こく)する顔だ」と主人はなお口惜(くや)しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝(たなざら)しに逢うと云う相(そう)だ」と迷亭は妙なばかり云う。ところへ妻君が奥の間(ま)からてて、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の神(かみ)さんにいつけられますよ」と注意する。「少しいつける方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴(ざんそ)などをなさるのは、あまり等ですわ、誰だってんであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり苛(ひど)いわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に分の容貌(ようぼう)も間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、分(だいぶ)引き掻(か)かれたじゃないか」「全体教師を何とているんだろう」「裏の車屋くらいにているのさ。ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見(ふりょうけん)さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君を顧(かえり)みる。「博士なんて底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑(けいべつ)するな。貴様なぞは知るまいが昔(むか)しアイソクラチスと云う人は九十四歳で著述をした。ソフォクリスが傑をしてを驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩をった。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元御前がこんな皺苦茶(しわくちゃ)な黒木綿(くろもめん)の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るからしておけ」「しておけって、あんな立派な御召(おめし)はござんせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎(とが)じゃございません」と細君うまく責任を逃(の)がれる。

主人は伯父さんと云う言葉を聞いて急に思いしたように「君に伯父があると云うは、今日始めて聞いた。今までついに噂(うわさ)をしたがないじゃないか、本にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物(がんぶつ)でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日(こんにち)まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白いばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷(まげ)を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被(かぶ)れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じたはないと威張ってるんです――寒いから、もっと寝(ね)ていらっしゃいと云うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間寝るのは贅沢(ぜいたく)の沙汰だって朝暗いうちからきてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠(ねむ)たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境(しょきょう)に入(い)ってはなはだ嬉しいと慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあり前でさあ。修業も糸瓜(へちま)も入(い)ったものじゃないのに人は全く克己(こっき)の力で功したと思ってるんですからね。それで外する時には、きっと鉄扇(てっせん)をもってるんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持ってるんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙ながありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差(さ)し合(あい)のない返をする。「此年(ことし)の春突手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人身が着ると云う返がました。二十三日に静岡で祝捷(しゅくしょうかい)があるからそれまでに間(ま)に合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子はい加減なきさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって丸(だいまる)へ注文してくれ……」「近頃は丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋(しろきや)と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇(てっせん)を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが間違さ。僕も無に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から包が届いたから、何か礼でもくれたと思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被候(くだされそうら)えども少々きく候間(そろあいだ)、帽子屋へ御遣(おつか)わしの、御縮め被度候(くだされたくそろ)。縮め賃は為替(こがわせ)にて此方(こなた)より御送(おんおくり)申候(もうしあぐべきそろ)とあるのさ」「なるほど迂濶(うかつ)だな」と主人は己(おの)れより迂濶なもののにあるを発見して(おおい)に満足の体(てい)に見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被(かぶ)っていらあ」「あの帽子かあ」と主人がにやにや笑う。「その方(かた)が男爵でいらっしゃるんですか」と細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢者でさあ、若い時聖堂(せいどう)で朱子(しゅしがく)か、何かにこり固まったものだから、電気灯ので恭(うやうや)しくちょん髷(まげ)を頂いているんです。仕方がありません」とやたらに顋(あご)を撫(な)で廻す。「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、も茶の間で聞いておりました」と細君もこれだけは主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭は訳(わけ)もなく笑う。「そりゃ嘘(うそ)ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と主人は嬉しそうな、配そうな顔付をする。「あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど法螺(ほら)が御手でいらっしゃる」と細君は非常に感する。「僕より、あの女の方が(う)わ手(て)でさあ」「あなただって御負けなさる気遣(きづか)いはありません」「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰(いわ)く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。猿智慧(さるぢえ)から割りした術数と、の滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるをざる訳に立ち至りますからな」主人は俯目(ふしめ)になって「どうだか」と云う。妻君は笑いながら「同じですわ」と云う。

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