正文 三 - 9

吾輩は今まで向う横丁へ足を踏み込んだはない。角屋敷(かどやしき)の金田とは、どんな構えか見たは無論ない。聞いたさえ今が始めてである。主人の(うち)で実業が話頭に(のぼ)ったは一返もないので、主人の飯を食う吾輩までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻図(はか)らずも鼻子の訪問を受けて、余所(よそ)ながらその談話を拝聴し、その令嬢の艶(えんび)を像し、またその富貴(ふうき)、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として椽側(えんがわ)に寝転んでいられなくなった。しかのみならず吾輩は寒月君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋の神(かみ)さんやら、二絃琴(にげんきん)の璋院(てんしょういん)まで買収して知らぬ間(ま)に、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、寒月君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理士にせよ、あまりがなさ過ぎる。と言って、ああ云う偉な鼻を顔の中(うち)に安置している女のだから、滅(めった)な者では寄り付ける訳の者ではない。こう云う件に関しては主人はむしろ無頓着でかつあまりに銭(ぜに)がなさ過ぎる。迷亭は銭に不由はしないが、あんな偶童子だから、寒月に援(たす)けを与える便宜(べんぎ)は尠(すくな)かろう。して見ると哀相(かわいそう)なのは首縊りの力を演説する先生ばかりとなる。吾輩でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机のへ叩きつけるくらいな者の(うち)に寄寓(きぐう)する猫で、世間一般の痴猫(ちびょう)、愚猫(ぐびょう)とは少しく撰(せん)を殊(こと)にしている。この冒険をあえてするくらいの義侠は固(もと)より尻尾(しっぽ)の先に畳み込んである。何も寒月君に恩になったと云う訳もないが、これはただに個人のためにする血気躁狂(けっきそうきょう)の沙汰ではない。きく云えば公平をみ中庸を愛する意を現実にする晴(あっぱれ)な挙だ。人の許諾を経(へ)ずして吾妻橋(あずまばし)件などを至る処に振り廻わすは、人の軒に犬を忍ばして、その報を々として逢う人に吹聴(ふいちょう)するは、車夫、馬丁(ばてい)、無頼漢(ぶらいかん)、ごろつき書生、日雇婆(ひやといばばあ)、産婆、妖婆(ようば)、按摩(あんま)、頓馬(とんま)に至るまでを使して国有の材に煩(はん)を及ぼして顧(かえり)みざるは――猫にも覚悟がある。幸い気もい、霜解(しもどけ)は少々閉口するがのためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、椽側(えんがわ)へ梅の花の印を押すくらいなは、ただ御三(おさん)の迷惑にはなるか知れんが、吾輩の苦痛とは申されない。翌日(あす)とも云わずこれから掛けようと勇猛精進(ゆうもうしょうじん)の決をして台所まで飛んでたが「待てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉(のど)の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌(しゃべ)れない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、肝(かんじん)の寒月君に教えてやる訳に行かない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある金剛石(ダイヤモンド)の日を受けて光らぬと同じで、せっかくの智識も無の長物となる。これは愚(ぐ)だ、やめようかしらんとり口で佇(たたず)んで見た。

しかし一度思い立ったを中途でやめるのは、白雨(ゆうだち)がるかと待っている時黒雲共(とも)隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人のためなら、たとい無駄死(むだじに)をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を汚(よご)すくらいは猫として適のところである。猫と生れた因果(いんが)で寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭(ぜっとう)に相互の思を換する技倆(ぎりょう)はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人のぬを就(じょうじゅ)するのはそれ身において愉快である。吾(われ)一箇でも、金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと云う覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々てては行かずにはいられない。やはり行くに致そう。

向う横町へて見ると、聞いた通りの西洋館が角面(かどじめん)を吾物顔(わがものがお)に占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢(ごうまん)に構えているんだろうと、門を這入(はい)ってその建築を眺(なが)めて見たがただ人を威圧しようと、二階りが無意味に突っ立っているほかに何等のもない構造であった。迷亭のいわゆる月並(つきなみ)とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった隈伯(おおくまはく)の勝手にも劣るまいと思うくらい整とぴかぴかしている。「模範勝手だな」と這入(はい)り込む。見ると漆喰(しっくい)で叩きげた二坪ほどの土間に、例の車屋の神(かみ)さんが立ちながら、御飯焚(ごはんた)きと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは剣呑(けんのん)だと水桶(みずおけ)の裏へかくれる。「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と飯焚(めしたき)が云う。「知らねえがあるもんか、この界隈(かいわい)で金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪(かたわ)だあな」これは抱え車夫の声である。「なんとも云えないよ。あの教師とたら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那のを少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、分の供の歳(とし)さえ知らないんだもの」と神さんが云う。「金田さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木(とうへんぼく)だ。構(かま)あ(こた)あねえ、みんなで威嚇(おど)かしてやろうじゃねえか」「それがいよ。奥様の鼻がき過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあ酷(ひど)いを云うんだよ。分の面(つら)あ今戸焼(いまどやき)の狸(たぬき)見たような癖に――あれで一人前(いちにんまえ)だと思っているんだからやれ切れないじゃないか」「顔ばかりじゃない、手拭(てぬぐい)を提(さ)げて湯に行くところからして、いやに高慢ちきじゃないか。分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ」と苦沙弥先生は飯焚にも(おおい)に不人望である。「何でも勢であいつの垣根の傍(そば)へ行って悪口をさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっと恐れ入るよ」「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をしたに、るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」「そりゃ分っているよ」と神さんは悪口の三分の一を引き受けると云う意味を示す。なるほどこの手合が苦沙弥先生を冷やかしにるなと三人の横を、そっと通り抜けて奥へ這入る。

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