正文 四 - 5

細君は主人に尻(しり)を向けて――なに失礼な細君だ?別に失礼なはないさ。礼も非礼も相互の解釈次でどうでもなるだ。主人は平気で細君の尻のところへ頬杖(ほおづえ)を突き、細君は平気で主人の顔の先へ荘厳(そうごん)なる尻を据(す)えたまでので無礼も糸瓜(へちま)もないのである。御両人は結婚後一ヵ年も立たぬ間(ま)に礼儀法などと窮屈な境遇を却せられた超的夫婦である。――さてかくのごとく主人に尻を向けた細君はどう云う了見(りょうけん)か、今日の気に乗じて、尺に余る緑の黒髪を、麩海苔(ふのり)と生卵でゴシゴシ洗濯せられた者と見えて癖のない奴を、見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま供の袖なしを熱に縫っている。実はその洗髪を乾かすために唐縮緬(とうちりめん)の布団(ふとん)と針箱を椽側(えんがわ)へして、恭(うやうや)しく主人に尻を向けたのである。あるいは主人の方で尻のある見(けんとう)へ顔を持ってたのかも知れない。そこで先刻御話しをした煙草(たばこ)の煙りが、豊かに靡(なび)く黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ陽炎(かげろう)の燃えるところを主人は余念もなく眺めている。しかしながら煙は固(もと)より一所(いっしょ)に停(とど)まるものではない、その質としてへへと立ち登るのだから主人の眼もこの煙りの髪毛(かみげ)と縺(もつ)れ合う奇観を落ちなく見ようとすれば、是非共眼を動かさなければならない。主人はまず腰の辺から観察を始めて徐々(じょじょ)と背中を伝(つた)って、肩から頸筋(くびすじ)に掛ったが、それを通り過ぎてようよう脳に達した時、覚えずあっと驚いた。――主人が偕老同(かいろうどうけつ)を契(ちぎ)った夫人の脳の真中には真丸(まんまる)なきな禿(はげ)がある。しかもその禿が暖かい日光を反して、今や時を顔に輝いている。思わざる辺(へん)にこの不思議な発見をなした時の主人の眼は眩(まば)ゆい中に充分の驚きを示して、烈しい光線で瞳孔(どうこう)の開くのも構わず一不乱に見つめている。主人がこの禿を見た時、一彼の脳裏(のうり)に浮んだのはかの(いえ)伝の仏壇に幾世となく飾り付けられたる御灯明皿(おとうみょうざら)である。彼の一(いっけ)は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。主人は幼少の時そのの倉の中に、薄暗く飾り付けられたる金箔(きんぱく)厚き厨子(ずし)があって、その厨子の中にはいつでも真鍮(しんちゅう)の灯明皿がぶらって、その灯明皿には昼でもぼんやりした灯(ひ)がついていたを記憶している。周囲が暗い中にこの灯明皿が比較的明瞭に輝やいていたので供にこの灯を何遍となく見た時の印象が細君の禿に喚(よ)びされて突飛びしたものであろう。灯明皿は一分立たぬ間(ま)に消えた。この度(たび)は観音様(かんのんさま)の鳩のを思いす。観音様の鳩と細君の禿とは何等の関係もないようであるが、主人の頭では二つの間に密接な聯がある。同じく供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が文久(ぶんきゅう)二つで、赤い土器(かわらけ)へ這入(はい)っていた。その土器(かわらけ)が、色と云い(おおき)さと云いこの禿によく似ている。

「なるほど似ているな」と主人が、さも感したらしく云うと「何がです」と細君は見向きもしない。

「何だって、御前の頭にゃきな禿があるぜ。知ってるか」

「ええ」と細君は依として仕の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超たる模範妻君である。

「嫁にくるときからあるのか、結婚後新たにたのか」と主人が聞く。もし嫁にくる前から禿げているなら欺(だま)されたのであると口へはさないがの中(うち)で思う。

「いつたんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって宜(い)いじゃありませんか」と(おおい)に悟ったものである。

「どうだって宜いって、分の頭じゃないか」と主人は少々怒気を帯びている。

「分の頭だから、どうだって宜(い)いんだわ」と云ったが、さすが少しは気になると見えて、右の手を頭に乗せて、くるくる禿を撫(な)でて見る。「おや分(だいぶ)きくなった、こんなじゃ無いと思っていた」と言ったところをもって見ると、年に合わして禿があまりき過ぎると云うをようやく覚したらしい。

「女は髷(まげ)に結(ゆ)うと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ」と少しく弁護しだす。

「そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、から薬缶(やかん)ばかりなければならん。そりゃ病気に違いない。伝染するかも知れん、今のうち早く甘木さんに見て貰え」と主人はしきりに分の頭を撫(な)で廻して見る。

「そんなに人のをおっしゃるが、あなただって鼻の孔(あな)へ白髪(しらが)が生(は)えてるじゃありませんか。禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ」と細君少々ぷりぷりする。

四 - 4目录+书签四 - 6