吾輩と鈴木君の間に、かくのごとき無言劇が行われつつある間に主人は衣紋(えもん)をつくろって後架(こうか)からてて「やあ」と席に着いたが、手に持っていた名刺の影さえ見えぬところをもって見ると、鈴木藤十郎君の名前は臭い所へ無期徒刑に処せられたものと見える。名刺こそ飛んだ厄運(やくうん)に際したものだと思う間(ま)もなく、主人はこの野郎と吾輩の襟(えり)がみを攫(つか)んでえいとばかりに椽側(えんがわ)へ擲(たた)きつけた。
「さあ敷きたまえ。珍らしいな。いつ東京へてた」と主人は旧友に向って布団を勧める。鈴木君はちょっとこれを裏返したで、それへ坐る。
「ついまだ忙がしいものだから報知もしなかったが、実はこの間から東京の本社の方へ帰るようになってね……」
「それは結構だ、分(だいぶ)長く逢わなかったな。君が田舎(いなか)へ行ってから、始めてじゃないか」
「うん、もう十年近くになるね。なにその後時々東京へはてるもあるんだが、ついがいもんだから、いつでも失敬するような訳さ。悪(わ)るく思ってくれたもうな。社の方は君の職業とは違って随分忙がしいんだから」
「十年立つうちには分違うもんだな」と主人は鈴木君を見げたり見ろしたりしている。鈴木君は頭を麗(きれい)に分けて、英国仕立のトウィードを着て、派手な襟飾(えりかざ)りをして、に金鎖りさえピカつかせている体裁、どうしても苦沙弥(くしゃみ)君の旧友とは思えない。
「うん、こんな物までぶらげなくちゃ、ならんようになってね」と鈴木君はしきりに金鎖りを気にして見せる。
「そりゃ本ものかい」と主人は無法(ぶさほう)な質問をかける。
「十八金だよ」と鈴木君は笑いながら答えたが「君も分年を取ったね。たしか供があるはずだったが一人かい」
「いいや」
「二人?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃ三人か」
「うん三人ある。この先幾人(いくにん)るか分らん」
「相変らず気楽なを云ってるぜ。一番きいのはいくつになるかね、もうよっぽどだろう」
「うん、いくつか(よ)く知らんが方(おおかた)六つか、七つかだろう」
「ハハハ教師は呑気(のんき)でいいな。僕も教員にでもなれば善かった」
「なって見ろ、三日で嫌(いや)になるから」
「そうかな、何だか品で、気楽で、閑暇(ひま)があって、すきな勉強がて、よさそうじゃないか。実業も悪くもないが我々のうちは駄目だ。実業になるならずっとにならなくっちゃいかん。の方になるとやはりつまらん御世辞を振り撒(ま)いたり、かん猪口(ちょこ)をいただきにたり随分愚(ぐ)なもんだよ」
「僕は実業は校時代から嫌だ。金さえ取れれば何でもする、昔で云えば素町人(すちょうにん)だからな」と実業を前に控(ひか)えて太平楽を並べる。
「まさか――そうばかりも云えんがね、少しは品なところもあるのさ、とにかく金(かね)と情死(しんじゅう)をする覚悟でなければやり通せないから――ところがその金と云う奴が曲者(くせもの)で、――今もある実業の所へ行って聞いてたんだが、金をるにも三角術を使わなくちゃいけないと云うのさ――義理をかく、人情をかく、恥をかくこれで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハ」
「誰だそんな馬鹿は」
「馬鹿じゃない、なかなか利口な男なんだよ、実業界でちょっと有名だがね、君知らんかしら、ついこの先の横丁にいるんだが」
「金田か?何(な)んだあんな奴」
「変怒ってるね。なあに、そりゃ、ほんの冗談(じょうだん)だろうがね、そのくらいにせんと金は溜らんと云う喩(たとえ)さ。君のようにそう真面目に解釈しちゃ困る」
「三角術は冗談でもいいが、あすこの女房の鼻はなんだ。君行ったんなら見てたろう、あの鼻を」
「細君か、細君はなかなかさばけた人だ」
「鼻だよ、きな鼻のを云ってるんだ。せんだって僕はあの鼻について俳体詩(はいたいし)をったがね」
「何だい俳体詩と云うのは」
「俳体詩を知らないのか、君も随分時勢に暗いな」
「ああ僕のように忙がしいと文などは底(とうてい)駄目さ。それに前からあまり数奇(すき)でない方だから」
「君シャーレマンの鼻の恰(かっこう)を知ってるか」
「アハハハハ随分気楽だな。知らんよ」
「エルリントンは部のものから鼻々と異名(いみょう)をつけられていた。君知ってるか」
「鼻のばかり気にして、どうしたんだい。いじゃないか鼻なんか丸くても尖(と)んがってても」
「決してそうでない。君パスカルのを知ってるか」
「また知ってるかか、まるで試験を受けにたようなものだ。パスカルがどうしたんだい」
「パスカルがこんなを云っている」
「どんなを」
「もしクレオパトラの鼻が少し短かかったならば世界の表面に変化を(きた)したろうと」
「なるほど」
「それだから君のようにそう無雑(むぞうさ)に鼻を馬鹿にしてはいかん」
「まあいいさ、これからにするから。そりゃそうとして、今日たのは、少し君にがあってたんだがね――あの元(もと)君の教えたとか云う、水島――ええ水島ええちょっと思いせない。――そら君の所へ始終ると云うじゃないか」
「寒月(かんげつ)か」
「そうそう寒月寒月。あの人のについてちょっと聞きたいがあってたんだがね」
「結婚件じゃないか」
「まあ少それに類似のさ。今日金田へ行ったら……」
「この間鼻が分でた」
「そうか。そうだって、細君もそう云っていたよ。苦沙弥さんに、よく伺おうと思ってったら、生憎(あいにく)迷亭がていて茶々を入れて何が何だか分らなくしてしまったって」
「あんな鼻をつけてるから悪るいや」
「いえ君のを云うんじゃないよ。あの迷亭君がおったもんだから、そう立ち入ったを聞く訳にも行かなかったので残念だったから、もう一遍僕に行ってよく聞いててくれないかって頼まれたものだからね。僕も今までこんな世話はしたはないが、もし人同士が嫌(い)やでないなら中へ立って纏(まと)めるのも、決して悪いはないからね――それでやってたのさ」
「御苦労様」と主人は冷淡に答えたが、腹の内では人同士と云う語(ことば)を聞いて、どう云う訳か分らんが、ちょっとを動かしたのである。蒸(む)し熱い夏の夜に一縷(いちる)の冷風(れいふう)が袖口(そでぐち)を潜(くぐ)ったような気分になる。元この主人はぶっ切ら棒の、頑固(がんこ)光沢(つや)消しを旨(むね)として製造された男であるが、さればと云って冷酷不人情な文明の産物とは(おのず)からその撰(せん)を異(こと)にしている。彼が何(なん)ぞと云うと、むかっ腹をたててぷんぷんするのでも這裏(しゃり)の消息は(えとく)できる。先日鼻と喧嘩をしたのは鼻が気に食わぬからで鼻の娘には何の罪もない話しである。実業は嫌いだから、実業の片割れなる金田某も嫌(きらい)に相違ないがこれも娘その人とは渉の沙汰と云わねばならぬ。娘には恩も恨(うら)みもなくて、寒月は分が実の弟よりも愛している門生である。もし鈴木君の云うごとく、人同志がいた仲なら、間接にもこれを妨害するのは君子のなすべき所(しょさ)でない。――苦沙弥先生はこれでも分を君子と思っている。――もし人同志がいているなら――しかしそれが問題である。この件に対して己の態度を改めるには、まずその真相から確めなければならん。