正文 四 - 12

「そんなも無かろう」と術(じゅつ)なげに答える。さっきまで迷亭の悪口を随分ついた揚句ここで無暗(むやみ)なを云うと、主人のような無法者はどんなを素(す)っ破抜(ぱぬ)くか知れない。なるべくここは(いい)加減に迷亭の鋭鋒をあしらって無に切り抜けるのが分別なのである。鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが世で、無の口論は封建時代の遺物とている。人生の目的は口舌(こうぜつ)ではない実行にある。己の思い通りに着々件が進捗(しんちょく)すれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と配と争論とがなくて件が進捗すれば人生の目的は極楽流(ごくらくりゅう)に達せられるのである。鈴木君は卒業後この極楽主義によって功し、この極楽主義によって金時計をぶらげ、この極楽主義で金田夫婦の依頼をうけ、同じくこの極楽主義でまんまと首尾よく苦沙弥君を説き落して該(とうがい)件が十中八九まで就(じょうじゅ)したところへ、迷亭なる常規をもって律すべからざる、普通の人間外の理を有するかと怪まるる風坊(ふうらいぼう)が飛び込んでたので少々その突なるに面喰(めんくら)っているところである。極楽主義を発明したものは明治の紳士で、極楽主義を実行するものは鈴木藤十郎君で、今この極楽主義で困却しつつあるものもまた鈴木藤十郎君である。

「君は何にも知らんからそうでもなかろうなどと澄し返って、例になく言葉寡(ことばずく)なに品に控(ひか)え込むが、せんだってあの鼻の主がた時の容子(ようす)を見たらいかに実業贔負(びいき)の尊公でも辟易(へきえき)するに極(きま)ってるよ、ねえ苦沙弥君、君(おおい)に奮闘したじゃないか」

「それでも君より僕の方が評判がいいそうだ」

「アハハハなかなか信が強い男だ。それでなくてはサヴェジ·チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして校へちゃいられん訳だ。僕も意志は決して人に劣らんつもりだが、そんなに図太くはん敬服の至りだ」

「生徒や教師が少々愚図愚図言ったって何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論であるが巴(パリ)で講義をした時は非常に不評判で、彼は生の攻撃に応ずるため外の際必ず匕首(あいくち)を袖(そで)のに持って防禦(ぼうぎょ)の具となしたがある。ブルヌチェルがやはり巴のでゾラの説を攻撃した時は……」

「だって君ゃの教師でも何でもないじゃないか。高がリードルの先生でそんなを例に引くのは雑魚(ざこ)が鯨(くじら)をもって(みずか)ら喩(たと)えるようなもんだ、そんなを云うとなおからかわれるぜ」

「黙っていろ。サントブーヴだって俺だって同じくらいな者だ」

「変な見識だな。しかし懐剣をもって歩行(ある)くだけはあぶないから真似(まね)ない方がいいよ。の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ刀(こがたな)くらいなところだな。しかしそれにしても刃物は剣呑(けんのん)だから仲見世(なかみせ)へ行っておもちゃの空気銃を買ってて背負(しょ)ってあるくがよかろう。愛嬌(あいきょう)があっていい。ねえ鈴木君」と云うと鈴木君はようやく話が金田件を離れたのでほっと一息つきながら

「相変らず無邪気で愉快だ。十年振りで始めて君等に逢ったんで何だか窮屈な路次(ろじ)から広い野原へたような気持がする。どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね。何を云うにも気をおかなくちゃならんから配で窮屈で実に苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昔しの書生時代の友達と話すのが一番遠慮がなくっていい。ああ今日は図(はか)らず迷亭君に遇(あ)って愉快だった。僕はちとがあるからこれで失敬する」と鈴木君が立ち懸(か)けると、迷亭も「僕もいこう、僕はこれから日本橋の演芸(えんげい)矯風(きょうふうかい)に行かなくっちゃならんから、そこまでいっしょに行こう」「そりゃちょうどいい久し振りでいっしょに散歩しよう」と両君は手を携(たずさ)えて帰る。

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