「何ですって」
「オタンチン·パレオロガスだよ」
「何ですそのオタンチン·パレオロガスって云うのは」
「何でもいい。それからあとは――俺の着物は一向(いっこう)てんじゃないか」
「あとは何でも宜(よ)うござんす。オタンチン·パレオロガスの意味を聞かして頂戴(ちょうだい)」
「意味も何(な)にもあるもんか」
「教えてすってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽどを馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」
「愚(ぐ)なを言わんで、早くあとを云うがい。早く告訴をせんと品物が返らんぞ」
「どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタンチン·パレオロガスを教えて頂戴」
「うるさい女だな、意味も何にも無いと云うに」
「そんなら、品物の方もあとはありません」
「頑愚(がんぐ)だな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盗難告訴を書いてやらんから」
「も品数(しなかず)を教えてげません。告訴はあなたが御分でなさるんですから、は書いていただかないでも困りません」
「それじゃ廃(よ)そう」と主人は例のごとくふいと立って書斎へ這入(はい)る。細君は茶の間へ引きがって針箱の前へ坐る。両人(ふたり)共十分間ばかりは何にもせずに黙って障子を睨(にら)め付けている。
ところへ威勢よく玄関をあけて、山の芋の寄贈者々良三平(たたらさんぺい)君が(あが)ってくる。々良三平君はもとこの(や)の書生であったが今では法科を卒業してある社の鉱山部に雇われている。これも実業の芽生(めばえ)で、鈴木藤十郎君の後進生である。三平君は前の関係から時々旧先生の草廬(そうろ)を訪問して日曜などには一日遊んで帰るくらい、この族とは遠慮のない間柄である。
「奥さん。よか気でござります」と唐津訛(からつなま)りか何かで細君の前にズボンのまま立て膝をつく。
「おや々良さん」
「先生はどこぞなすったか」
「いいえ書斎にいます」
「奥さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた」
「わたしに言っても駄目だから、あなたが先生にそうおっしゃい」
「そればってんが……」と言い掛けた三平君は座敷中を見廻わして「今日は御嬢さんも見えんな」と半分妻君に聞いているや否や次の間(ま)からとん子とすん子が馳けしてる。
「々良さん、今日は御寿司(おすし)を持ってて?」と姉のとん子は先日の約束を覚えていて、三平君の顔を見るや否や催促する。々良君は頭を掻(か)きながら
「よう覚えているのう、この次はきっと持ってます。今日は忘れた」と白状する。
「いやーだ」と姉が云うと妹もすぐ真似をして「いやーだ」とつける。細君はようやく御機嫌が直って少々笑顔になる。
「寿司は持ってんが、山の芋はげたろう。御嬢さん喰べなさったか」
「山の芋ってなあに?」と姉がきくと妹が今度もまた真似をして「山の芋ってなあに?」と三平君に尋ねる。
「まだ食いなさらんか、早く御母(おか)あさんに煮て御貰い。唐津(からつ)の山の芋は東京のとは違ってうまかあ」と三平君が国慢をすると、細君はようやく気が付いて
「々良さんせんだっては御親切に沢山ありがとう」
「どうです、喰べて見なすったか、折れんように箱を誂(あつ)らえて堅くつめてたから、長いままでありましたろう」
「ところがせっかくすった山の芋を夕(ゆう)べ泥棒に取られてしまって」
「ぬす盗(と)が?馬鹿な奴ですなあ。そげん山の芋のきな男がおりますか?」と三平君(おおい)に感している。
「御母(おか)あさま、夕べ泥棒が這入(はい)ったの?」と姉が尋ねる。
「ええ」と細君は軽(かろ)く答える。
「泥棒が這入って――そうして――泥棒が這入って――どんな顔をして這入ったの?」と今度は妹が聞く。この奇問には細君も何と答えてよいか分らんので
「恐(こわ)い顔をして這入りました」と返をして々良君の方を見る。
「恐い顔って々良さん見たような顔なの」と姉が気の毒そうにもなく、押し返して聞く。
「何ですね。そんな失礼なを」
「ハハハハ(わたし)の顔はそんなに恐いですか。困ったな」と頭を掻(か)く。々良君の頭の後部には直径一寸ばかりの禿(はげ)がある。一カ月前からだして医者に見て貰ったが、まだ容易に癒(なお)りそうもない。この禿を一番に見付けたのは姉のとん子である。
「あら々良さんの頭は御母(おかあ)さまのように光(ひ)かってよ」
「だまっていらっしゃいと云うのに」
「御母あさま夕べの泥棒の頭も光かってて」とこれは妹の質問である。細君と々良君とは思わず吹きしたが、あまり煩(わずら)わしくて話も何もぬので「さあさあ御前さん達は少し御庭へて御遊びなさい。今に御母あさまがい御菓子をげるから」と細君はようやく子供を追いやって
「々良さんの頭はどうしたの」と真面目に聞いて見る。
「虫が食いました。なかなか癒りません。奥さんも有んなさるか」
「やだわ、虫が食うなんて、そりゃ髷(まげ)で釣るところは女だから少しは禿げますさ」
「禿はみんなバクテリヤですばい」
「わたしのはバクテリヤじゃありません」
「そりゃ奥さん意張りたい」
「何でもバクテリヤじゃありません。しかし英語で禿のを何とか云うでしょう」
「禿はボールドとか云います」
「いいえ、それじゃないの、もっと長い名があるでしょう」
「先生に聞いたら、すぐわかりましょう」
「先生はどうしても教えてさらないから、あなたに聞くんです」
「(わたし)はボールドより知りませんが。長かって、どげんですか」
「オタンチン·パレオロガスと云うんです。オタンチンと云うのが禿と云う字で、パレオロガスが頭なんでしょう」
「そうかも知れませんたい。今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引いて調べてげましょう。しかし先生もよほど変っていなさいますな。この気のいのに、うちにじっとして――奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと野へでも花見に掛けなさるごと勧めなさい」
「あなたが連れしてさい。先生は女の云うは決して聞かない人ですから」
「この頃でもジャムを舐(な)めなさるか」
「ええ相変らずです」
「せんだって、先生こぼしていなさいました。どうも妻(さい)が俺のジャムの舐め方が烈しいと云って困るが、俺はそんなに舐めるつもりはない。何か勘定違いだろうと云いなさるから、そりゃ御嬢さんや奥さんがいっしょに舐めなさるに違ない――」
「いやな々良さんだ、何だってそんなを云うんです」
「しかし奥さんだって舐めそうな顔をしていなさるばい」
「顔でそんながどうして分ります」
「分らんばってんが――それじゃ奥さん少しも舐めなさらんか」
「そりゃ少しは舐めますさ。舐めたっていじゃありませんか。うちのものだもの」
「ハハハハそうだろうと思った――しかし本(ほん)の(こと)、泥棒は飛んだ災難でしたな。山の芋ばかり持って行(い)たのですか」
「山の芋ばかりなら困りゃしませんが、不断着をみんな取って行きました」
「早速困りますか。また借金をしなければならんですか。この猫が犬ならよかったに――惜しいをしたなあ。奥さん犬の(ふと)か奴(やつ)を是非一丁飼いなさい。――猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで――ちっとは鼠でも捕(と)りますか」
「一匹もとったはあ
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