正文 五 - 9

これから戦計画だ。どこで鼠と戦争するかと云えば無論鼠のる所でなければならぬ。いかにこっちに便宜(べんぎ)な形だからと云って一人で待ち構えていてはてんで戦争にならん。ここにおいてか鼠の口を研究する必が生ずる。どの方面からるかなと台所の真中に立って四方を見廻わす。何だか東郷将のような持がする。女はさっき湯に行って戻って(こ)ん。供はとくに寝ている。主人は芋坂(いもざか)の団子を喰って帰ってて相変らず書斎に引き籠(こも)っている。細君は――細君は何をしているか知らない。方居眠りをして山芋の夢でも見ているのだろう。時々門前を人力(じんりき)が通るが、通り過ぎた後(あと)は一段と淋しい。わが決と云い、わが意気と云い台所の光景と云い、四辺(しへん)の寂寞(せきばく)と云い、全体の感じが悉(ことごと)く悲壮である。どうしても猫中(ねこちゅう)の東郷将としか思われない。こう云う境界(きょうがい)に入ると物凄(ものすご)い内に一種の愉快を覚えるのは誰しも同じであるが、吾輩はこの愉快の底に一配が横(よこた)わっているのを発見した。鼠と戦争をするのは覚悟の前だから何疋ても恐(こわ)くはないが、てくる方面が明瞭でないのは不合である。周密なる観察からた材料を綜合(そうごう)して見ると鼠賊(そぞく)の逸(いっしゅつ)するのには三つの行路がある。彼れらがもしどぶ鼠であるならば土管を沿うて流しから、へっついの裏手へ廻るに相違ない。その時は火消壺の影に隠れて、帰りを絶ってやる。あるいは溝(みぞ)へ湯を抜く漆喰(しっくい)のより風呂場を迂回(うかい)して勝手へ不意に飛びすかも知れない。そうしたら釜の蓋(ふた)のに陣取って眼のにた時から飛びりて一攫(ひとつか)みにする。それからとまたあたりを見廻すと戸棚の戸の右の隅が半月形(はんげつけい)に喰い破られて、彼等の入(しゅつにゅう)に便なるかの疑がある。鼻を付けて臭(か)いで見ると少々鼠臭(くさ)い。もしここから吶喊(とっかん)してたら、柱を楯(たて)にやり過ごしておいて、横合からあっと爪をかける。もし井からたらとを仰ぐと真黒な煤(すす)がランプの光で輝やいて、獄を裏返しに釣るしたごとくちょっと吾輩の手際(てぎわ)では(のぼ)るも、(くだ)るもん。まさかあんな高い処から落ちてくるもなかろうからとこの方面だけは警戒を解(と)くにする。それにしても三方から攻撃される懸念(けねん)がある。一口なら片眼でも退治して見せる。二口ならどうにか、こうにかやってのける信がある。しかし三口となるといかに本的に鼠を捕(と)るべく予期せらるる吾輩も手の付けようがない。さればと云って車屋の黒ごときものを助勢に頼んでくるのも吾輩の威厳に関する。どうしたらかろう。どうしたらかろうと考えてい智慧(ちえ)がない時は、そんなはる気遣(きづかい)はないと決めるのが一番安をる近である。また法のつかない者はらないと考えたくなるものである。まず世間を見渡して見給え。きのう貰った花嫁も今日死なんとも限らんではないか、しかし聟殿(むこどの)は玉椿千代も八千代もなど、おめでたいを並べて配らしい顔もせんではないか。配せんのは、配する価値がないからではない。いくら配したって法が付かんからである。吾輩の場合でも三面攻撃は必ずらぬと断言すべき相の論拠はないのであるが、らぬとする方が安をるに便利である。安は万物に必である。吾輩も安をする。よって三面攻撃はらぬと極(き)める。

それでもまだ配が取れぬから、どう云うものかとだんだん考えて見るとようやく分った。三個の計略のうちいずれを選んだのがもっとも策であるかの問題に対して、(みずか)ら明瞭なる答弁をるに苦しむからの煩悶(はんもん)である。戸棚からるときには吾輩これに応ずる策がある、風呂場から現われる時はこれに対する計(はかりごと)がある、また流しから這いるときはこれを迎うる算もあるが、そのうちどれか一つに極(き)めねばならぬとなると(おおい)に惑する。東郷将はバルチック艦隊が対馬海峡(つしまかいきょう)を通るか、津軽海峡(つがるかいきょう)へるか、あるいは遠く宗谷海峡(そうやかいきょう)を廻るかについて(おおい)に配されたそうだが、今吾輩が吾輩身の境遇から像して見て、ご困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況において東郷閣に似ているのみならず、この格段なる位においてもまた東郷閣とよく苦を同じゅうする者である。

吾輩がかく夢中になって智謀をめぐらしていると、突破れた腰障子が開(あ)いて御三(おさん)の顔がぬうとる。顔だけると云うのは、手足がないと云う訳ではない。ほかの部分は夜目(よめ)でよく見えんのに、顔だけが著るしく強い色をして判眸底(ぼうてい)に落つるからである。御三はその平常より赤き頬をますます赤くして洗湯から帰ったついでに、昨夜(ゆうべ)に懲(こ)りてか、早くから勝手の戸締(とじまり)をする。書斎で主人が俺のステッキを枕元へしておけと云う声が聞える。何のために枕頭にステッキを飾るのか吾輩には分らなかった。まさか易水(えきすい)の壮士を気取って、竜鳴(りゅうめい)を聞こうと云う酔狂でもあるまい。きのうは山の芋、今日(きょう)はステッキ、明日(あす)は何になるだろう。

夜はまだ浅い鼠はなかなかそうにない。吾輩は戦の前に一と休養をする。

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