正文 五 - 10

主人の勝手には引窓がない。座敷なら欄間(らんま)と云うような所が幅一尺ほど切り抜かれて夏冬吹き通しに引窓の代理を勤めている。惜し気もなく散る彼岸桜(ひがんざくら)を誘うて、颯(さっ)と吹き込む風に驚ろいて眼を覚(さ)ますと、朧月(おぼろづき)さえいつの間(ま)に差してか、竈(へっつい)の影は斜めに揚板(あげいた)のにかかる。寝過ごしはせぬかと二三度耳を振って内の容子(ようす)を窺(うかが)うと、しんとして昨夜のごとく柱時計の音のみ聞える。もう鼠のる時分だ。どこからるだろう。

戸棚の中でことことと音がしだす。皿の縁(ふち)を足で抑えて、中をあらしているらしい。ここからるわいとの横へすくんで待っている。なかなかてる景色(けしき)はない。皿の音はやがてやんだが今度はどんぶりか何かに掛ったらしい、重い音が時々ごとごととする。しかも戸を隔ててすぐ向う側でやっている、吾輩の鼻づらと距離にしたら三寸も離れておらん。時々はちょろちょろとの口まで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顔をすものはない。戸一枚向うに現在敵が暴行を逞(たくま)しくしているのに、吾輩はじっとの口で待っておらねばならん随分気の長い話だ。鼠は旅順椀(りょじゅんわん)の中で盛に舞踏を催うしている。せめて吾輩の這入(はい)れるだけ御三がこの戸を開けておけば善いのに、気の利かぬ山しだ。

今度はへっついの影で吾輩の鮑貝(あわびがい)がことりと鳴る。敵はこの方面へもたなと、そーっと忍び足で近寄ると手桶(ておけ)の間から尻尾(しっぽ)がちらと見えたぎり流しのへ隠れてしまった。しばらくすると風呂場でうがい茶碗が金盥(かなだらい)にかちりとる。今度は後方(うしろ)だと振りむく途端に、五寸近くある(おおき)な奴がひらりと歯磨の袋を落して椽(えん)のへ馳(か)け込む。逃がすものかと続いて飛びりたらもう影も姿も見えぬ。鼠を捕(と)るのは思ったよりむずかしい者である。吾輩は先的鼠を捕る力がないのか知らん。

吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から馳けし、戸棚を警戒すると流しから飛びり、台所の真中に頑張(がんば)っていると三方面共少々ずつ騒ぎ立てる。癪(こしゃく)と云おうか、卑怯(ひきょう)と云おうかとうてい彼等は君子の敵でない。吾輩は十五六回はあちら、こちらと気を疲らし(しん)を労(つか)らして奔走努力して見たがついに一度も功しない。残念ではあるがかかる人(しょうじん)を敵にしてはいかなる東郷将も施(ほど)こすべき策がない。始めは勇気もあり敵愾(てきがいしん)もあり悲壮と云う崇高な感さえあったがついには面倒と馬鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり動かないになった。しかし動かんでも八方睨(はっぽうにら)みを極(き)め込んでいれば敵は人だからしたはんのである。目ざす敵と思った奴が、存外けちな野郎だと、戦争が名誉だと云う感じが消えて悪(に)くいと云う念だけ残る。悪(に)くいと云う念を通り過すと張り合が抜けてぼーとする。ぼーとしたあとは勝手にしろ、どうせ気の利(き)いたはないのだからと軽蔑(けいべつ)の極(きょく)眠(ねむ)たくなる。吾輩はの径路をたどって、ついに眠くなった。吾輩は眠る。休養は敵中に在(あ)っても必である。

横向に庇(ひさし)を向いて開いた引窓から、また花吹雪(はなふぶき)を一塊(ひとかたま)りなげ込んで、烈しき風の吾を遶(めぐ)ると思えば、戸棚の口から弾丸のごとく飛びした者が、避くる間(ま)もあらばこそ、風を切って吾輩の左の耳へ喰いつく。これに続く黒い影は後(うし)ろに廻るかと思う間もなく吾輩の尻尾(しっぽ)へぶらがる。瞬(またた)く間のである。吾輩は何の目的もなく器械的に跳(はねあが)る。満身の力を毛に込めてこの怪物を振り落とそうとする。耳に喰いがったのは中を失ってだらりと吾が横顔に懸る。護謨管(ゴムかん)のごとき柔かき尻尾の先が思い掛なく吾輩の口に這入る。屈竟(くっきょう)の手懸(てがか)りに、砕(くだ)けよとばかり尾を啣(くわ)えながら左右にふると、尾のみは前歯の間に残って胴体は古新聞で張った壁にって、揚板のに跳(は)ね返る。きがるところを隙間(すきま)なく乗(の)し掛(かか)れば、毬(まり)を蹴(け)たるごとく、吾輩の鼻づらを掠(かす)めて釣り段の縁(ふち)に足を縮めて立つ。彼は棚のから吾輩を見おろす、吾輩は板の間から彼を見ぐる。距離は五尺。その中に月の光りが、幅(おおはば)の帯を空(くう)に張るごとく横に差し込む。吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり棚のに飛びがろうとした。前足だけは首尾よく棚の縁(ふち)にかかったが後足(あとあし)は宙にもがいている。尻尾には最前の黒いものが、死ぬとも離るまじき勢で喰いっている。吾輩は危(あや)うい。前足を懸(か)け易(か)えて足懸(あしがか)りを深くしようとする。懸け易える度に尻尾の重みで浅くなる。二三分(にさんぶ)滑れば落ちねばならぬ。吾輩はいよいよ危うい。棚板を爪で掻(か)きむしる音ががりがりと聞える。これではならぬと左の前足を抜き易える拍子に、爪を見に懸け損じたので吾輩は右の爪一本で棚からぶらった。分と尻尾に喰いつくものの重みで吾輩のからだがぎりぎりと廻わる。この時まで身動きもせずに覘(ねら)いをつけていた棚のの怪物は、ここぞと吾輩の額を目懸けて棚のから石を投ぐるがごとく飛びりる。吾輩の爪は一縷(いちる)のかかりを失う。三つの塊(かた)まりが一つとなって月の光を竪(たて)に切ってへ落ちる。次の段に乗せてあった摺鉢(すりばち)と、摺鉢の中の桶(こおけ)とジャムの空缶(あきかん)が同じく一塊(ひとかたまり)となって、にある火消壺を誘って、半分は水甕(みずがめ)の中、半分は板の間のへ転がりす。すべてが深夜にただならぬ物音を立てて死物狂いの吾輩の魂をさえ寒からしめた。

「泥棒!」と主人は胴間声(どうまごえ)を張りげて寝室から飛びしてる。見ると片手にはランプを提(さ)げ、片手にはステッキを持って、寝ぼけ眼(まなこ)よりは身分相応の炯々(けいけい)たる光を放っている。吾輩は鮑貝(あわびがい)の傍(そば)におとなしくして蹲踞(うずくま)る。二疋の怪物は戸棚の中へ姿をかくす。主人は手持無沙汰に「何だ誰だ、きな音をさせたのは」と怒気を帯びて相手もいないのに聞いている。月が西に傾いたので、白い光りの一帯は半切(はんきれ)ほどに細くなった。

五 - 9目录+书签六 - 1