正文 六 - 3

「時に御主人はどうしました。相変らず午睡(ひるね)ですかね。午睡も支那人の詩にてくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。何のあない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ、奥さん御手数(おてすう)だがちょっとしていらっしゃい」と催促すると細君は同感と見えて「ええ、ほんとにあれでは困ります。一あなた、からだが悪るくなるばかりですから。今御飯をいただいたばかりだのに」と立ちかけると迷亭先生は「奥さん、御飯と云やあ、僕はまだ御飯をいただかないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬを吹聴(ふいちょう)する。「おやまあ、時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何もございませんが御茶漬でも」「いえ御茶漬なんか頂戴しなくってもいですよ」「それでも、あなた、どうせ御口に合うようなものはございませんが」と細君少々厭味を並べる。迷亭は悟ったもので「いえ御茶漬でも御湯漬でも御免蒙るんです。今途中で御馳走を誂(あつ)らえてましたから、そいつを一つここでいただきますよ」ととうてい素人(しろうと)にはそうもないを述べる。細君はたった一言(ひとこと)「まあ!」と云ったがそのまあの中(うち)には驚ろいたまあと、気を悪るくしたまあと、手数(てすう)が省けてありがたいと云うまあが合併している。

ところへ主人が、いつになくあまりやかましいので、寝つき掛った眠をさかに扱(こ)かれたような持で、ふらふらと書斎からてる。「相変らずやかましい男だ。せっかくい持に寝ようとしたところを」と欠伸(あくびまじ)りに仏頂面(ぶっちょうづら)をする。「いや御目覚(おめざめ)かね。鳳眠(ほうみん)を驚かし奉ってはなはだ相済まん。しかしたまにはかろう。さあ坐りたまえ」とどっちが客だか分らぬ挨拶をする。主人は無言のまま座に着いて寄木細工(よせぎざいく)の巻煙草(まきたばこ)入から「朝日」を一本してすぱすぱ吸い始めたが、ふと向(むこう)の隅(すみ)に転がっている迷亭の帽子に眼をつけて「君帽子を買ったね」と云った。迷亭はすぐさま「どうだい」と慢らしく主人と細君の前に差しす。「まあ奇麗だ。変目が細かくって柔らかいんですね」と細君はしきりに撫で廻わす。「奥さんこの帽子は重宝(ちょうほう)ですよ、どうでも言うを聞きますからね」と拳骨(げんこつ)をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、なるほど意のごとく拳(こぶし)ほどながあいた。細君が「へえ」と驚く間(ま)もなく、この度(たび)は拳骨を裏側へ入れてうんと突ッ張ると釜(かま)の頭がぽかりと尖(と)んがる。次には帽子を取って鍔(つば)と鍔とを両側から圧(お)し潰(つぶ)して見せる。潰れた帽子は麺棒(めんぼう)で延(の)した蕎麦(そば)のように平たくなる。それを片端から蓆(むしろ)でも巻くごとくぐるぐる畳む。「どうですこの通り」と丸めた帽子を懐中へ入れて見せる。「不思議ですねえ」と細君は帰斎正一(きてんさいしょういち)の手品でも見物しているように感嘆すると、迷亭もその気になったものと見えて、右から懐中に収めた帽子をわざと左の袖口(そでぐち)から引っ張りして「どこにも傷はありません」と元のごとくに直して、人さし指の先へ釜の底を載(の)せてくるくると廻す。もう休(や)めるかと思ったら最後にぽんと後(うし)ろへ放(な)げてそのへ堂(ど)っさりと尻餅を突いた。「君丈夫かい」と主人さえ懸念(けねん)らしい顔をする。細君は無論の配そうに「せっかく見な帽子をもし壊(こ)わしでもしちゃあ変ですから、もうい加減になすったら宜(よ)うござんしょう」と注意をする。意なのは持主だけで「ところが壊われないから妙でしょう」と、くちゃくちゃになったのを尻のから取りしてそのまま頭へ載せると、不思議なには、頭の恰(かっこう)にたちまち回復する。「実に丈夫な帽子ですねえ、どうしたんでしょう」と細君がいよいよ感すると「なにどうもしたんじゃありません、元からこう云う帽子なんです」と迷亭は帽子を被ったまま細君に返をしている。

「あなたも、あんな帽子を御買になったら、いいでしょう」としばらくして細君は主人に勧めかけた。「だって苦沙弥君は立派な麦藁(むぎわら)の奴を持ってるじゃありませんか」「ところがあなた、せんだって供があれを踏み潰(つぶ)してしまいまして」「おやおやそりゃ惜しい[#「惜しい」は底本では「措しい」]をしましたね」「だから今度はあなたのような丈夫で奇麗なのを買ったら善かろうと思いますんで」と細君はパナマの価段(ねだん)を知らないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」としきりに主人に勧告している。

迷亭君は今度は右の袂(たもと)の中から赤いケース入りの鋏(はさみ)を取りして細君に見せる。「奥さん、帽子はそのくらいにしてこの鋏を御覧なさい。これがまたすこぶる重宝(ちょうほう)な奴で、これで十四通りに使えるんです」この鋏がないと主人は細君のためにパナマ責めになるところであったが、幸に細君が女として持って生れた奇のために、この厄運(やくうん)を免(まぬ)かれたのは迷亭の機転と云わんよりむしろ僥倖(ぎょうこう)の仕合せだと吾輩は破した。「その鋏がどうして十四通りに使えます」と聞くや否や迷亭君は意な調子で「今一々説明しますから聞いていらっしゃい。いいですか。ここに三日月形(みかづきがた)の欠け目がありましょう、ここへ葉巻を入れてぷつりと口を切るんです。それからこの根にちょと細工がありましょう、これで針金をぽつぽつやりますね。次には平たくして紙のへ横に置くと定規(じょうぎ)のをする。また刃(は)の裏には度盛(どもり)がしてあるから物指(ものさし)の代もる。こちらの表にはヤスリが付いているこれで爪を磨(す)りまさあ。ようがすか。この先(さ)きを螺旋鋲(らせんびょう)の頭へ刺し込んでぎりぎり廻すと金槌(かなづち)にも使える。うんと突き込んでこじ開けると抵の釘付(くぎづけ)の箱なんざあ苦もなく蓋(ふた)がとれる。まった、こちらの刃の先は錐(きり)にている。ここん所(とこ)は書き損いの字を削(けず)る場所で、ばらばらに離すと、ナイフとなる。一番しまいに――さあ奥さん、この一番しまいが変面白いんです、ここに蠅(はえ)の眼玉くらいなきさの球(たま)がありましょう、ちょっと、覗(のぞ)いて御覧なさい」「いやですわまたきっと馬鹿になさるんだから」「そう信がなくっちゃ困ったね。だが欺(だま)されたと思って、ちょいと覗いて御覧なさいな。え?厭(いや)ですか、ちょっとでいいから」と鋏(はさみ)を細君に渡す。細君は覚束(おぼつか)なげに鋏を取りあげて、例の蠅の眼玉の所へ分の眼玉を付けてしきりに覘(ねらい)をつけている。「どうです」「何だか真黒ですわ」「真黒じゃいけませんね。も少し障子の方へ向いて、そう鋏を寝かさずに――そうそうそれなら見えるでしょう」「おやまあ写真ですねえ。どうしてこんなさな写真を張り付けたんでしょう」「そこが面白いところでさあ」と細君と迷亭はしきりに問答をしている。最前から黙っていた主人はこの時急に写真が見たくなったものと見えて「おい俺にもちょっと覧(み)せろ」と云うと細君は鋏を顔へ押し付けたまま「実に奇麗です、体の人ですね」と云ってなかなか離さない。「おいちょっと御見せと云うのに」「まあ待っていらっしゃいよ。くしい髪ですね。腰までありますよ。少し仰向(あおむ)いて恐ろしい背(せい)の高い女だ、しかし人ですね」「おい御見せと云ったら、抵にして見せるがいい」と主人は(おおい)に急(せ)き込んで細君に食って掛る。「へえ御待遠さま、たんと御覧遊ばせ」と細君が鋏を主人に渡す時に、勝手から御三(おさん)が御客さまの御誂(おあつらえ)が参りましたと、二個の笊蕎麦(ざるそば)を座敷へ持ってる。

六 - 2目录+书签六 - 4