正文 六 - 4

「奥さんこれが僕の弁(じべん)の御馳走ですよ。ちょっと御免蒙って、ここでぱくつくに致しますから」と叮嚀(ていねい)に御辞儀をする。真面目なような巫山戯(ふざけ)たような動だから細君も応対に窮したと見えて「さあどうぞ」と軽く返をしたぎり拝見している。主人はようやく写真から眼を放して「君この暑いのに蕎麦(そば)は毒だぜ」と云った。「なあに丈夫、きなものは滅(めった)に中(あた)るもんじゃない」と蒸籠(せいろ)の蓋(ふた)をとる。「打ち立てはありがたいな。蕎麦(そば)の延びたのと、人間の間(ま)が抜けたのは由たのもしくないもんだよ」と薬味(やくみ)をツユの中へ入れて無茶苦茶に掻(か)き廻わす。「君そんなに山葵(わさび)を入れると辛(か)らいぜ」と主人は配そうに注意した。「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」「僕は饂飩(うどん)がきだ」「饂飩は馬子(まご)が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒なはない」と云いながら杉箸(すぎばし)をむざと突き込んでるだけくの分量を二寸ばかりの高さにしゃくいげた。「奥さん蕎麦を食うにもいろいろ流儀がありますがね。初(しょしん)の者に限って、無暗(むやみ)にツユを着けて、そうして口の内でくちゃくちゃやっていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一(ひ)としゃくいに引っ掛けてね」と云いつつ箸をげると、長い奴が勢揃(せいぞろ)いをして一尺ばかり空中に釣るしげられる。迷亭先生もう善かろうと思ってを見ると、まだ十二三本の尾が蒸籠の底を離れないで簀垂(すだ)れのに纏綿(てんめん)している。「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」とまた奥さんに相の手を求する。奥さんは「長いものでございますね」とさも感したらしい返をする。「この長い奴へツユを三分一(さんぶいち)つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛(か)んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉(のど)を滑(すべ)り込むところがねうちだよ」と思い切って箸(はし)を高くげると蕎麦はようやくのでを離れた。左手(ゆんで)に受ける茶碗の中へ、箸を少しずつ落して、尻尾の先からだんだんに浸(ひた)すと、アーキミジスの理論によって、蕎麦の浸(つか)った分量だけツユの嵩(かさ)が増してくる。ところが茶碗の中には元からツユが八分目這入(はい)っているから、迷亭の箸にかかった蕎麦の四半分(しはんぶん)も浸(つか)らない先に茶碗はツユで一杯になってしまった。迷亭の箸は茶碗を(さ)る五寸のに至ってぴたりと留まったきりしばらく動かない。動かないのも無理はない。少しでも卸(おろ)せばツユが溢(こぼ)れるばかりである。迷亭もここに至って少し 躇(ちゅうちょ)の体(てい)であったが、たちまち兎(だっと)の勢をて、口を箸の方へ持って行ったなと思う間(ま)もなく、つるつるちゅうと音がして咽喉笛(のどぶえ)が一二度(じょうげ)へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると迷亭君の両眼から涙のようなものが一二滴眼尻(めじり)から頬へ流れした。山葵(わさび)が利(き)いたものか、飲み込むのに骨が折れたものかこれはいまだに判しない。「感だなあ。よくそんなに一どきに飲み込めたものだ」と主人が敬服すると「御見ですねえ」と細君も迷亭の手際(てぎわ)を激賞した。迷亭は何にも云わないで箸を置いてを二三度敲(たた)いたが「奥さん笊(ざる)は抵三口半か四口で食うんですね。それより手数(てすう)を掛けちゃ旨(うま)く食えませんよ」とハンケチで口を拭いてちょっと一息入れている。

ところへ寒月君が、どう云う了見(りょうけん)かこの暑いのに御苦労にも冬帽を被(かぶ)って両足を埃(ほこり)だらけにしてやってくる。「いや男子の御入(ごにゅうらい)だが、喰い掛けたものだからちょっと失敬しますよ」と迷亭君は衆人環座(しゅうじんかんざ)の裏(うち)にあって臆面(おくめん)もなく残った蒸籠を平(たいら)げる。今度は先刻(さっき)のように目覚(めざま)しい食方もしなかった代りに、ハンケチを使って、中途で息を入れると云う不体裁もなく、蒸籠(せいろ)二つを安々とやってのけたのは結構だった。

「寒月君博士論文はもう稿するのかね」と主人が聞くと迷亭もその後(あと)から「金田令嬢がお待ちかねだから早々(そうそう)呈(ていしゅつ)したまえ」と云う。寒月君は例のごとく薄気味の悪い笑を洩(も)らして「罪ですからなるべく早くして安させてやりたいのですが、何しろ問題が問題で、よほど労力の入(い)る研究をするのですから」と本気の沙汰とも思われないを本気の沙汰らしく云う。「そうさ問題が問題だから、そう鼻の言う通りにもならないね。もっともあの鼻なら充分鼻息をうかがうだけの価値はあるがね」と迷亭も寒月流な挨拶をする。比較的に真面目なのは主人である。「君の論文の問題は何とか云ったっけな」「蛙の眼球(めだま)の電動に対する紫外光線(しがいこうせん)の影響と云うのです」「そりゃ奇だね。さすがは寒月先生だ、蛙の眼球は振(ふる)ってるよ。どうだろう苦沙弥君、論文稿前にその問題だけでも金田へ報知しておいては」主人は迷亭の云うには取り合わないで「君そんなが骨の折れる研究かね」と寒月君に聞く。「ええ、なかなか複雑な問題です、一蛙の眼球のレンズの構造がそんな単簡(たんかん)なものでありませんからね。それでいろいろ実験もしなくちゃなりませんがまず丸い硝子(ガラス)の球(たま)をこしらえてそれからやろうと思っています」「硝子の球なんかガラス屋へ行けば訳ないじゃないか」「どうして――どうして」と寒月先生少々反身(そりみ)になる。「元円(えん)とか直線とか云うのは幾何的のもので、あの定義に合ったような理的な円や直線は現実世界にはないもんです」「ないもんなら、廃(よ)したらよかろう」と迷亭が口をす。「それでまず実験差(さ)し支(つか)えないくらいな球をって見ようと思いましてね。せんだってからやり始めたのです」「たかい」と主人が訳のないようにきく。「るものですか」と寒月君が云ったが、これでは少々矛盾だと気が付いたと見えて「どうもむずかしいです。だんだん磨(す)って少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを持落すと、さあ変今度は向側(むこうがわ)が長くなる。そいつを骨を折ってようやく磨(す)り潰(つぶ)したかと思うと全体の形がいびつになるんです。やっとの思いでこのいびつを取るとまた直径に狂いがます。始めは林檎(りんご)ほどなきさのものがだんだんさくなって苺(いちご)ほどになります。それでも根気よくやっていると豆(だいず)ほどになります。豆ほどになってもまだ完全な円はませんよ。も随分熱に磨りましたが――この正月からガラス玉を六個磨り潰しましたよ」と嘘だか本だか見のつかぬところを喋々(ちょうちょう)と述べる。「どこでそんなに磨っているんだい」「やっぱり校の実験室です、朝磨り始めて、昼飯のときちょっと休んでそれから暗くなるまで磨るんですが、なかなか楽じゃありません」「それじゃ君が近頃忙がしい忙がしいと云って毎日日曜でも校へ行くのはその珠を磨りに行くんだね」「全く目のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています」「珠りの博士となって入り込みしは――と云うところだね。しかしその熱を聞かせたら、いかな鼻でも少しはありがたがるだろう。実は先日僕があるがあって図書館へ行って帰りに門をようとしたら偶老梅(ろうばい)君に逢ったのさ。あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議なだと思って感に勉強するねと云ったら先生妙な顔をして、なに本を読みにたんじゃない、今門前を通り掛ったらちょっと(こよう)がしたくなったから拝借に立ち寄ったんだと云ったんで笑をしたが、老梅君と君とは反対の例として新撰蒙求(しんせんもうぎゅう)に是非入れたいよ」と迷亭君例のごとく長たらしい註釈をつける。主人は少し真面目になって「君そう毎日毎日珠ばかり磨ってるのもよかろうが、元いつ頃るつもりかね」と聞く。「まあこの容子(ようす)じゃ十年くらいかかりそうです」と寒月君は主人より呑気(のんき

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