正文 六 - 5

寒月君はちょっと句を切って「何、そんなにご配には及びませんよ。金田でもの珠ばかり磨ってるはよく承知しています。実は二三日(にさんち)前行った時にもよく情を話してました」としたり顔に述べ立てる。すると今まで三人の談話を分らぬながら傾聴していた細君が「それでも金田さんは族中残らず、先月から磯へ行っていらっしゃるじゃありませんか」と不審そうに尋ねる。寒月君もこれには少し辟易(へきえき)の体(てい)であったが「そりゃ妙ですな、どうしたんだろう」ととぼけている。こう云う時に重宝なのは迷亭君で、話の途切(とぎ)れた時、極(きま)りの悪い時、眠くなった時、困った時、どんな時でも必ず横合から飛びしてくる。「先月磯へ行ったものに両三日(りょうさんち)前東京で逢うなどは神秘的でいい。いわゆる霊の換だね。相思の情の切な時にはよくそう云う現象がるものだ。ちょっと聞くと夢のようだが、夢にしても現実よりたしかな夢だ。奥さんのように別に思いも思われもしない苦沙弥君の所へ片付いて生涯(しょうがい)恋の何物たるを御解しにならん方には、御不審ももっともだが……」「あら何を証拠にそんなをおっしゃるの。随分軽蔑(けいべつ)なさるのね」と細君は中途から不意に迷亭に切り付ける。「君だって恋煩(こいわずら)いなんかしたはなさそうじゃないか」と主人も正面から細君に助太刀をする。「そりゃ僕の艶聞(えんぶん)などは、いくら有ってもみんな七十五日経過しているから、君方(きみがた)の記憶には残っていないかも知れないが――実はこれでも失恋の結果、この歳になるまで独身で暮らしているんだよ」と一順列座の顔を公平に見廻わす。「ホホホホ面白い」と云ったのは細君で、「馬鹿にしていらあ」と庭の方を向いたのは主人である。ただ寒月君だけは「どうかその懐旧談を後(こうがく)のために伺いたいもので」と相変らずにやにやする。

「僕のも分(だいぶ)神秘的で、故泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しいに先生は永眠されたから、実のところ話す張合もないんだが、せっかくだから打ち開けるよ。その代りしまいまで謹聴しなくっちゃいけないよ」と念を押していよいよ本文に取り掛る。「回顧すると今をる――ええと――何年前だったかな――面倒だからほぼ十五六年前としておこう」「冗談(じょうだん)じゃない」と主人は鼻からフンと息をした。「変物覚えが御悪いのね」と細君がひやかした。寒月君だけは約束を守って一言(いちごん)も云わずに、早くあとが聴きたいと云う風をする。「何でもある年の冬のだが、僕が越後の国は蒲原郡(かんばらごおり)筍谷(たけのこだに)を通って、蛸壺峠(たこつぼとうげ)へかかって、これからいよいよ津領(あいづりょう)[#ルビの「あいづりょう」は底本では「あいずりょう」]へようとするところだ」「妙なところだな」と主人がまた邪魔をする。「だまって聴いていらっしゃいよ。面白いから」と細君が制する。「ところが日は暮れる、路は分らず、腹は減る、仕方がないから峠の真中にある一軒屋を敲(たた)いて、これこれかようかようしかじかの次だから、どうか留めてくれと云うと、御安い御です、さあ御がんなさいと蝋燭(はだかろうそく)を僕の顔に差しつけた娘の顔を見て僕はぶるぶると悸(ふる)えたがね。僕はその時から恋と云う曲者(くせもの)の魔力を切実に覚したね」「おやいやだ。そんな山の中にもしい人があるんでしょうか」「山だって海だって、奥さん、その娘を一目あなたに見せたいと思うくらいですよ、文金(ぶんきん)の高島田(たかしまだ)に髪を結(い)いましてね」「へえー」と細君はあっけに取られている。「這入(はい)って見ると八畳の真中にきな囲炉裏(いろり)が切ってあって、その周(まわ)りに娘と娘の爺(じい)さんと婆(ばあ)さんと僕と四人坐ったんですがね。さぞ御腹(おなか)が御減(おへ)りでしょうと云いますから、何でも善いから早く食わせ給えと請求したんです。すると爺さんがせっかくの御客さまだから蛇飯(へびめし)でも炊(た)いてげようと云うんです。さあこれからがいよいよ失恋に取り掛るところだからしっかりして聴きたまえ」「先生しっかりして聴くは聴きますが、なんぼ越後の国だって冬、蛇がいやしますまい」「うん、そりゃ一応もっともな質問だよ。しかしこんな詩的な話しになるとそう理窟(りくつ)にばかり拘泥(こうでい)してはいられないからね。鏡花の説にゃ雪の中から蟹(かに)がてくるじゃないか」と云ったら寒月君は「なるほど」と云ったきりまた謹聴の態度に復した。

「その時分の僕は随分悪(あく)もの食いの隊長で、蝗(いなご)、なめくじ、赤蛙などは食い厭(あ)きていたくらいなところだから、蛇飯は乙(おつ)だ。早速御馳走になろうと爺さんに返をした。そこで爺さん囲炉裏のへ鍋(なべ)をかけて、その中へ米を入れてぐずぐず煮したものだね。不思議なにはその鍋(なべ)の蓋(ふた)を見ると十個ばかりのがあいている。そのから湯気がぷうぷう吹くから、旨(うま)い工夫をしたものだ、田舎(いなか)にしては感だと見ていると、爺さんふと立って、どこかへて行ったがしばらくすると、きな笊(ざる)を脇に抱(か)い込んで帰ってた。何気なくこれを囲炉裏の傍(そば)へ置いたから、その中を覗(のぞ)いて見ると――いたね。長い奴が、寒いもんだから御互にとぐろの捲(ま)きくらをやって塊(かた)まっていましたね」「もうそんな御話しは廃(よ)しになさいよ。厭らしい」と細君は眉に八の字を寄せる。「どうしてこれが失恋の源因になるんだからなかなか廃せませんや。爺さんはやがて左手に鍋の蓋をとって、右手に例の塊まった長い奴を無雑(むぞうさ)につかまえて、いきなり鍋の中へ放(ほう)り込んで、すぐから蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりははっと息のが塞(ふさが)ったかと思ったよ」「もう御やめになさいよ。気味(きび)の悪るい」と細君しきりに怖(こわ)がっている。「もう少しで失恋になるからしばらく辛抱(しんぼう)していらっしゃい。すると一分立つか立たないうちに蓋のから鎌首(かまくび)がひょいと一つましたのには驚ろきましたよ。やあたなと思うと、隣のからもまたひょいと顔をした。またたよと云ううち、あちらからもる。こちらからもる。とうとう鍋中(なべじゅう)蛇の面(つら)だらけになってしまった」「なんで、そんなに首をすんだい」「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這いそうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とか云うと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々(めいめい)に蛇の頭を持ってぐいと引く。は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くと共に長いのが面白いように抜けしてくる」「蛇の骨抜きですね」と寒月君が笑いながら聞くと「全くの骨抜だ、器なをやるじゃないか。それから蓋を取って、杓子(しゃくし)でもって飯とを矢鱈(やたら)に掻(か)き(ま)ぜて、さあ召しがれとた」「食ったのかい」と主人が冷淡に尋ねると、細君は苦(にが)い顔をして「もう廃(よ)しになさいよ、が悪るくって御飯も何もたべられやしない」と愚痴をこぼす。「奥さんは蛇飯を召しがらんから、そんなをおっしゃるが、まあ一遍たべてご覧なさい、あの味ばかりは生涯(しょうがい)忘れられませんぜ」「おお、いやだ、誰が食べるもんですか」「そこで充分御饌(ごぜん)も頂戴し、寒さも忘れるし、娘の顔も遠慮なく見るし、もう思いおくはないと考えていると、御休みなさいましと云うので、旅の労(つか)れもあるだから、仰(おおせ)に従って、ごろりと横になると、すまん訳だが前後を忘却して寝てしまった」「それからどうなさいました」と今度は細君の方から催促する。「それから明朝(あくるあさ)になって眼を覚(さま)してからが失恋でさあ」「どうかなさったんですか」「いえ別にどうもしやしませんがね。朝きて巻煙草(まきたばこ)をふかしながら裏の窓から見ていると、向うの筧(かけひ)の傍(そば)で、薬缶頭(やかんあたま)が顔を洗っているんでさあ」「爺さんか婆さんか」と主人が聞く。「それがさ、僕にも識別しにくかったから、しばらく拝見していて、その薬缶がこちらを向く段になって驚ろいた

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