正文 六 - 9

主人は少々談話の局面を展開して見たくなったと見えて、「どうです、東風さん、近頃は傑もありませんか」と聞くと東風君は「いえ、別段これと云って御目にかけるほどのものもませんが、近日詩集をして見ようと思いまして――稿本(こうほん)を幸い持って参りましたから御批評を願いましょう」と懐から紫の袱紗包(ふくさづつみ)をして、その中から五六十枚ほどの原稿紙の帳面を取りして、主人の前に置く。主人はもっともらしい顔をして拝見と云って見ると一頁に

世の人に似ずあえかに見え給う

富子嬢に捧ぐ

と二行にかいてある。主人はちょっと神秘的な顔をしてしばらく一頁を無言のまま眺(なが)めているので、迷亭は横合から「何だい新体詩かね」と云いながら覗(のぞ)き込んで「やあ、捧げたね。東風君、思い切って富子嬢に捧げたのはえらい」としきりに賞(ほ)める。主人はなお不思議そうに「東風さん、この富子と云うのは本に存在している婦人なのですか」と聞く。「へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読へ招待した婦人の一人です。ついこの御近所に住んでおります。実はただ今詩集を見せようと思ってちょっと寄って参りましたが、生憎(あいにく)先月から磯へ避暑に行って留守でした」と真面目くさって述べる。「苦沙弥君、これが二十世紀なんだよ。そんな顔をしないで、早く傑でも朗読するさ。しかし東風君この捧げ方は少しまずかったね。このあえかにと云う雅言(がげん)は全体何と言う意味だと思ってるかね」「蚊弱(かよわ)いとかたよわくと云う字だと思います」「なるほどそうも取れんはないが本の字義を云うと危う気にと云うだぜ。だから僕ならこうは書かないね」「どう書いたらもっと詩的になりましょう」「僕ならこうさ。世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻のに捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだが鼻のがあるのとないのとでは変感じに相違があるよ」「なるほど」と東風君は解(げ)しかねたところを無理に納(なっとく)した体(てい)にもてなす。

主人は無言のままようやく一頁をはぐっていよいよ巻頭一章を読みす。

倦(う)んじて薫(くん)ずる香裏(こうり)に君の

霊か相思の煙のたなびき

おお我、ああ我、辛(から)きこの世に

あまくてしか熱き口づけ

「これは少々僕には解しかねる」と主人は嘆息しながら迷亭に渡す。「これは少々振い過ぎてる」と迷亭は寒月に渡す。寒月は「なああるほど」と云って東風君に返す。

「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日(こんにち)の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、った本人ですら質問を受けると返答に窮するがよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義(くんぎ)は究のやるで共の方では頓(とん)と構いません。せんだってもの友人で送籍(そうせき)と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧(もうろう)として取り留(と)めがつかないので、人に逢って篤(とく)と主意のあるところを糺(ただ)して見たのですが、人もそんなは知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡(たんかん)に送籍君を打ち留めた。東風君はこれだけではまだ弁じ足りない。「送籍は吾々仲間のうちでも取除(とりの)けですが、の詩もどうか持ちその気で読んでいただきたいので。ことに御注意を願いたいのはからきこの世と、あまき口づけと対(つい)をとったところがの苦です」「よほど苦をなすった痕迹(こんせき)が見えます」「あまいとからいと反照するところなんか十七味調(じゅうしちみちょう)唐辛子調(とうがらしちょう)で面白い。全く東風君独特の伎倆で敬々服々の至りだ」としきりに正直な人をまぜ返して喜んでいる。

主人は何と思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持っててくる。「東風君の御も拝見したから、今度は僕が短文を読んで諸君の御批評を願おう」といささか本気の沙汰である。「居士(てんねんこじ)の墓碑銘(ぼひめい)ならもう二三遍拝聴したよ」「まあ、だまっていなさい。東風さん、これは決して意のものではありませんが、ほんの座興ですから聴いてさい」「是非伺がいましょう」「寒月君もついでに聞き給え」「ついででなくても聴きますよ。長い物じゃないでしょう」「僅々六十余字さ」と苦沙弥先生いよいよ手製の名文を読み始める。

「魂(やまとだましい)!と叫んで日本人が肺病やみのような咳(せき)をした」

「して突兀(とっこつ)ですね」と寒月君がほめる。

「魂!と新聞屋が云う。魂!と掏摸(すり)が云う。魂が一躍して海を渡った。英国で魂の演説をする。独逸(ドイツ)で魂の芝居をする」

「なるほどこりゃ居士(てんねんこじ)のだ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。

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