逆の説明はこのくらいで充分だろうと思うから、これよりいよいよ件に取りかかる。しかしすべての件の前には必ず件がるものだ。件のみを述べて、件を逸するのは古から歴史の常に陥（おちい）る弊竇（へいとう）である。主人の逆も件に逢う度に一層の劇甚（げきじん）を加えて、ついに件を引きしたのであるからして、幾分かその発達を順序立てて述べないと主人がいかに逆しているか分りにくい。分りにくいと主人の逆は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかも知れない。せっかく逆しても人から晴（あっぱれ）な逆と謡（うた）われなくては張り合がないだろう。これから述べる件はに係（かかわ）らず主人に取って名誉な者ではない。件その物が不名誉であるならば、責（せ）めて逆なりとも、正銘（しょうめい）の逆であって、決して人に劣るものでないと云うを明かにしておきたい。主人は他に対して別にこれと云って誇るに足る質を有しておらん。逆でも慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。
落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分（じっぷん）の休暇、もしくは放課後に至って熾（さかん）に北側の空（あきち）に向って砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールと称（とな）えて、擂粉木（すりこぎ）のきな奴をもって任意これを敵中に発する仕掛である。いくらダムダムだって落雲館の運動場から発するのだから、書斎に立て籠（こも）ってる主人に中（あた）る気遣（きづかい）はない。敵といえども弾のあまり遠過ぎるのを覚せんはないのだけれど、そこが軍略である。旅順の戦争にも海軍から間接撃を行って偉な功を奏したと云う話であれば、空へころがり落つるボールといえども相の功果を収めぬはない。いわんや一発を送る度（たび）に総軍力を合せてわーと威嚇（いかくせい）音声（だいおんじょう）を（いだ）すにおいてをやである。主人は恐縮の結果として手足に通う血管が収縮せざるをない。煩悶（はんもん）の極（きょく）そこいらを迷付（まごつ）いている血が逆（さか）さに（のぼ）るはずである。敵の計（はかりごと）はなかなか巧妙と云うてよろしい。昔（むか）し希臘（ギリシャ）にイスキラスと云うがあったそうだ。この男は者に共通なる頭を有していたと云う。吾輩のいわゆる者に共通なる頭とは禿（はげ）と云う意味である。なぜ頭が禿げるかと云えば頭の営養不足で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。者はもっともく頭を使うものであって概は貧乏に極（きま）っている。だから者の頭はみんな営養不足でみんな禿げている。さてイスキラスもであるからの勢（いきおい）禿げなくてはならん。彼はつるつるたる金柑頭（きんかんあたま）を有しておった。ところがある日の、先生例の頭――頭に外行（よそゆき）も普段着（ふだんぎ）もないから例の頭に極ってるが――その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往をあるいていた。これが間違いのもとである。禿げ頭を日にあてて遠方から見ると、変よく光るものだ。高い木には風があたる、光かる頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭のに一羽の鷲（わし）が舞っていたが、見るとどこかで生捕（いけど）った一疋（ぴき）の亀を爪の先に攫（つか）んだままである。亀、スッポンなどは味に相違ないが、希臘時代から堅い甲羅（こうら）をつけている。いくら味でも甲羅つきではどうするもん。海老（えび）の鬼殻焼（おにがらやき）はあるが亀の子の甲羅煮は今でさえないくらいだから、時は無論なかったに極っている。さすがの鷲（わし）も少々持て余した折柄（おりから）、遥（はる）かの界にぴかと光った者がある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったもののへ亀の子を落したなら、甲羅は正（まさ）しく砕けるに極（き）わまった。砕けたあとから舞いりて中味（なかみ）を頂戴（ちょうだい）すれば訳はない。そうだそうだと覗（ねらい）を定めて、かの亀の子を高い所から挨拶も無く頭のへ落した。生憎（あいにく）の頭の方が亀の甲より軟らかであったものだから、禿はめちゃめちゃに砕けて有名なるイスキラスはここに無惨（むざん）の最後を遂げた。それはそうと、解（げ）しかねるのは鷲の了見である。例の頭を、の頭と知って落したのか、または禿岩と間違えて落したものか、解決しよう次で、落雲館の敵とこの鷲とを比較するもるし、またなくもなる。主人の頭はイスキラスのそれのごとく、また御歴々（おれきれき）の者のごとくぴかぴか光ってはおらん。しかし六畳敷にせよいやしくも書斎と号する一室を控（ひか）えて、居眠りをしながらも、むずかしい書物のへ顔を翳（かざ）すは、者の同類と見傚（みな）さなければならん。そうすると主人の頭の禿げておらんのは、まだ禿げるべき資格がないからで、その内に禿げるだろうとは近々（きんきん）この頭のに落ちかかるべき運命であろう。して見れば落雲館の生徒がこの頭を目懸けて例のダムダム丸（がん）を集注するのは策のもっとも時宜（じぎ）に適したものと云わねばならん。もし敵がこの行動を二週間継続するならば、主人の頭は畏怖（いふ）と煩悶（はんもん）のため必ず営養の不足を訴えて、金柑（きんかん）とも薬缶（やかん）とも銅壺（どうこ）とも変化するだろう。なお二週間の砲撃を食（くら）えば金柑は潰（つぶ）れるに相違ない。薬缶は洩（も）るに相違ない。銅壺ならひびが入るにきまっている。この睹易（みやす）き結果を予せんで、あくまでも敵と戦闘を継続しようと苦するのは、ただ本人たる苦沙弥先生のみである。