正文 八 - 6

やがて時間がたと見えて、講話はぱたりとやんだ。他の教室の課業も皆一度に終った。すると今まで室内に密封された八百の同勢は鬨(とき)の声をあげて、建物を飛びした。その勢(いきおい)と云うものは、一尺ほどな蜂(はち)の巣を敲(たた)き落したごとくである。ぶんぶん、わんわん云うて窓から、戸口から、開きから、いやしくもの開(あ)いている所なら何の容赦もなく我勝ちに飛びした。これが件の発端である。

まず蜂の陣立てから説明する。こんな戦争に陣立ても何もあるものかと云うのは間違っている。普通の人は戦争とさえ云えば沙河(しゃか)とか奉(ほうてん)とかまた旅順(りょじゅん)とかそのほかに戦争はないもののごとくに考えている。少し詩がかった野蛮人になると、アキリスがヘクトーの死骸を引きずって、トロイの城壁を三匝(さんそう)したとか、燕(えん)ぴと張飛が長坂橋(ちょうはんきょう)に丈八(じょうはち)の蛇矛(だぼう)を横(よこた)えて、曹操(そうそう)の軍百万人を睨(にら)め返したとか袈裟(おおげさ)なばかり連する。連は人の随意だがそれ外の戦争はないものとるのは不合だ。太古蒙昧(たいこもうまい)の時代に在(あ)ってこそ、そんな馬鹿気た戦争も行われたかも知れん、しかし太平の今日(こんにち)、日本国帝の中においてかくのごとき野蛮的行動はありべからざる奇蹟に属している。いかに騒動が持ちがっても番の焼打にる気遣(きづかい)はない。して見ると臥竜窟(がりょうくつ)主人の苦沙弥先生と落雲館裏(り)八百の健児との戦争は、まず東京市あっての戦争の一として数えてもしかるべきものだ。左氏(さし)が 陵(えんりょう)の戦(たたかい)を記するにってもまず敵の陣勢から述べている。古から叙述に巧みなるものは皆この筆法をいるのが通則になっている。だによって吾輩が蜂の陣立てを話すのも仔細(しさい)なかろう。それでまず蜂の陣立ていかんと見てあると、四つ目垣の外側に縦列を形(かた)ちづくった一隊がある。これは主人を戦闘線内に誘致する職務を帯びた者と見える。「降参しねえか」「しねえしねえ」「駄目だ駄目だ」「てこねえ」「落ちねえかな」「落ちねえはずはねえ」「吠えて見ろ」「わんわん」「わんわん」「わんわんわんわん」これから先は縦隊総がかりとなって吶喊(とっかん)の声を揚げる。縦隊を少し右へ離れて運動場の方面には砲隊が形勝のを占めて陣を布(し)いている。臥竜窟(がりょうくつ)に面して一人の将官が擂粉木(すりこぎ)のきな奴を持って控(ひか)える。これと相対して五六間の間隔をとってまた一人立つ、擂粉木のあとにまた一人、これは臥竜窟に顔をむけて突っ立っている。かくのごとく一直線にならんで向い合っているのが砲手である。ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、決して戦闘準備ではないそうだ。吾輩はベースボールの何物たるを解せぬ文盲漢(もんもうかん)である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日(こんにち)中程度の校に行わるる運動のうちでもっとも流行するものだそうだ。米国は突飛(とっぴ)なばかり考えす国柄であるから、砲隊と間違えてもしかるべき、近所迷惑の遊戯を日本人に教うべくだけそれだけ親切であったかも知れない。また米国人はこれをもって真に一種の運動遊戯とているのだろう。しかし純粋の遊戯でもかように四隣を驚かすに足る力を有しているは使いようで砲撃のには充分立つ。吾輩の眼をもって観察したところでは、彼等はこの運動術を利して砲火の功を収めんと企てつつあるとしか思われない。物は云いようでどうでもなるものだ。慈善の名を借りて詐偽(さぎ)を働らき、インスピレーションと号して逆をうれしがる者があるはベースボールなる遊戯の(もと)に戦争をなさんとも限らない。或る人の説明は世間一般のベースボールのであろう。今吾輩が記述するベースボールはこの特別の場合に限らるるベースボール即(すなわ)ち攻城的砲術である。これからダムダム弾を発する方法を紹介する。直線に布(し)かれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右の手に握って擂粉木の所有者に抛(ほう)りつける。ダムダム弾は何で製造したか局外者には分らない。堅い丸い石の団子のようなものを御鄭寧(ごていねい)に皮でくるんで縫い合せたものである。前(ぜん)申す通りこの弾丸が砲手の一人の手中を離れて、風を切って飛んで行くと、向うに立った一人が例の擂粉木をやっと振りげて、これを敲(たた)き返す。たまには敲き損(そこ)なった弾丸が流れてしまうもあるが、概はポカンときな音を立てて弾(は)ね返る。その勢は非常に猛烈なものである。神経胃弱なる主人の頭を潰(つぶ)すくらいは容易にる。砲手はこれだけで足るのだが、その周囲附近には弥次馬(やじうま)兼援兵が雲霞(うんか)のごとく付き添うている。ポカーンと擂粉木が団子に中(あた)るや否やわー、ぱちぱちぱちと、わめく、手を拍(う)つ、やれやれと云う。中(あた)ったろうと云う。これでも利(き)かねえかと云う。恐れ入らねえかと云う。降参かと云う。これだけならまだしもであるが、敲(たた)き返された弾丸は三度に一度必ず臥竜窟邸内へころがり込む。これがころがり込まなければ攻撃の目的は達せられんのである。ダムダム弾は近諸所で製造するが随分高価なものであるから、いかに戦争でもそう充分な供給を仰ぐ訳に行かん。抵一隊の砲手に一つもしくは二つの割である。ポンと鳴る度にこの貴重な弾丸を消費する訳には行かん。そこで彼等はたま拾(ひろい)と称する一部隊を設けて落弾(おちだま)を拾ってくる。落ち場所がよければ拾うのに骨も折れないが、草原とか人の邸内へ飛び込むとそう容易(たやす)くは戻ってない。だから平生ならなるべく労力を避けるため、拾い易(やす)い所へ打ち落すはずであるが、この際は反対にる。目的が遊戯にあるのではない、戦争に存するのだから、わざとダムダム弾を主人の邸内に降らせる。邸内に降らせるは、邸内へ這入(はい)って拾わなければならん。邸内に這入るもっとも簡便な方法は四つ目垣を越えるにある。四つ目垣のうちで騒動すれば主人が怒(おこ)りさなければならん。しからずんば兜(かぶと)をいで降参しなければならん。苦のあまり頭がだんだん禿げてなければならん。

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