「いえ泥棒ではありません。落雲館の生徒です」
「うそをつけ。落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入する奴があるか」
「しかしこの通りちゃんと校の徽章（きしょう）のついている帽子を被（かぶ）っています」
「にせものだろう。落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した」
「ボールが飛び込んだものですから」
「なぜボールを飛び込ました」
「つい飛び込んだんです」
「怪（け）しからん奴だ」
「後注意しますから、今度だけ許してさい」
「どこの何者かわからん奴が垣を越えて邸内に闖入（ちんにゅう）するのを、そう容易（たやす）く許されると思うか」
「それでも落雲館の生徒に違ないんですから」
「落雲館の生徒なら何年生だ」
「三年生です」
「きっとそうか」
「ええ」
主人は奥の方を顧（かえり）みながら、おいこらこらと云う。
埼玉生れの御三（おさん）が襖（ふすま）をあけて、へえと顔をす。
「落雲館へ行って誰か連れてこい」
「誰を連れて参ります」
「誰でもいいから連れてこい」
女は「へえ」と答えが、あまり庭前の光景が妙なのと、使の趣（おもむき）が判しないのと、さっきからの件の発展が馬鹿馬鹿しいので、立ちもせず、坐りもせずにやにや笑っている。主人はこれでも戦争をしているつもりである。逆的敏腕を（おおい）に振（ふる）っているつもりである。しかるところ分の召し使たるこっちの肩を持つべきものが、真面目な態度をもってに臨まんのみか、を言いつけるのを聞きながらにやにや笑っている。ますます逆せざるをない。
「誰でも構わんから呼んでいと云うのに、わからんか。校長でも幹でも教頭でも……」
「あの校長さんを……」女は校長と云う言葉だけしか知らないのである。
「校長でも、幹でも教頭でもと云っているのにわからんか」
「誰もおりませんでしたら使でもよろしゅうございますか」
「馬鹿を云え。使などに何が分かるものか」
ここに至って女もやむをんとたものか、「へえ」と云ってて行った。使の主意はやはり飲み込めんのである。使でも引張ってはせんかと配していると、あに計らんや例の倫理の先生が表門から乗り込んでた。平と座に就（つ）くを待ち受けた主人は直ちに談判にとりかかる。
「ただ今邸内にこの者共が乱入致して……」と忠臣蔵のような古風な言葉を使ったが「本に御校（おんこう）の生徒でしょうか」と少々皮に語尾を切った。
倫理の先生は別段驚いた様子もなく、平気で庭前にならんでいる勇士を一通り見廻わした、もとのごとく瞳（ひとみ）を主人の方にかえして、（しも）のごとく答えた。
「さようみんな校の生徒であります。こんなのないように始終訓戒を加えておきますが……どうも困ったもので……なぜ君等は垣などを乗り越すのか」
さすがに生徒は生徒である、倫理の先生に向っては一言（いちごん）もないと見えて何とも云うものはない。おとなしく庭の隅にかたまって羊の群（むれ）が雪に逢ったように控（ひか）えている。
「丸（たま）が這入（はい）るのも仕方がないでしょう。こうして校の隣りに住んでいるは、時々はボールも飛んでましょう。しかし……あまり乱暴ですからな。仮令（たとい）垣を乗り越えるにしても知れないないように、そっと拾って行くなら、まだ勘弁のしようもありますが……」
「ごもっともで、よく注意は致しますが何分人数（たにんず）ので……よくこれから注意をせんといかんぜ。もしボールが飛んだら表から廻って、御断りをして取らなければいかん。いいか。――広い校のですからどうも世話ばかりやけて仕方がないです。で運動は教育必なものでありますから、どうもこれを禁ずる訳には参りかねるので。これを許すとつい御迷惑になるようながますが、これは是非御容赦を願いたいと思います。その代り向後（こうご）はきっと表門から廻って御断りを致したで取らせますから」
「いや、そうが分かればよろしいです。球（たま）はいくら御投げになっても差支（さしつか）えはないです。表からきてちょっと断わってされば構いません。ではこの生徒はあなたに御引き渡し申しますからお連れ帰りを願います。いやわざわざ御呼び立て申して恐縮です」と主人は例によって例のごとく竜頭蛇尾（りゅうとうだび）の挨拶をする。倫理の先生は丹波の笹山を連れて表門から落雲館へ引きげる。吾輩のいわゆる件はこれで一とまず落着を告げた。何のそれが件かと笑うなら、笑うがいい。そんな人には件でないまでだ。吾輩は主人の件を写したので、そんな人の件を記（しる）したのではない。尻が切れて強弩（きょうど）の末勢（ばっせい）だなどと悪口するものがあるなら、これが主人の特色であるを記憶して貰いたい。主人が滑稽文の材料になるのもまたこの特色に存するを記憶して貰いたい。十四五の供を相手にするのは馬鹿だと云うなら吾輩も馬鹿に相違ないと同意する。だから町桂月は主人をつらまえて未（いま）だ稚気（ちき）を免がれずと云うている。