正文 八 - 9

吾輩はすでに件を叙し了(おわ)り、今また件を述べ了ったから、これより件の後(あと)にる余瀾(よらん)を描(えが)きだして、全篇の結びを付けるつもりである。すべて吾輩のかくは、口から任(でまか)せのいい加減と思う読者もあるかも知れないが決してそんな軽率な猫ではない。一字一句の裏(うち)に宇宙の一哲理を包含するは無論の、その一字一句が層々(そうそう)連続すると首尾相応じ前後相照らして、瑣談繊話(さだんせんわ)と思ってうっかりと読んでいたものが忽(こつぜん)豹変(ひょうへん)して容易ならざる法語となるんだから、決して寝ころんだり、足をして五行ごとに一度に読むのだなどと云う無礼を演じてはいけない。柳宗元(りゅうそうげん)は韓退(かんたいし)の文を読むごとに薔薇(しょうび)の水(みず)で手を清めたと云うくらいだから、吾輩の文に対してもせめて腹(じばら)で雑誌を買ってて、友人の御余りを借りて間に合わすと云う不始末だけはないに致したい。これから述べるのは、吾輩(みずか)ら余瀾と号するのだけれど、余瀾ならどうせつまらんに極(きま)っている、読まんでもよかろうなどと思うと飛んだ後悔をする。是非しまいまで精読しなくてはいかん。

件のあった翌日、吾輩はちょっと散歩がしたくなったから表へた。すると向う横町へ曲がろうと云う角で金田の旦那と鈴木の藤(とう)さんがしきりに立ちながら話をしている。金田君は車で宅(うち)へ帰るところ、鈴木君は金田君の留守を訪問して引き返す途中で両人(ふたり)がばったりと逢ったのである。近は金田の邸内も珍らしくなくなったから、滅(めった)にあちらの方角へは足が向かなかったが、こう御目に懸って見ると、何となく御懐(おなつ)かしい。鈴木にも久々(ひさびさ)だから余所(よそ)ながら拝顔の栄をておこう。こう決してのそのそ御両君の佇立(ちょりつ)しておらるる傍(そば)近く歩み寄って見ると、両君の談話が耳に入(い)る。これは吾輩の罪ではない。先方が話しているのがわるいのだ。金田君は探偵さえ付けて主人の動静を窺(うか)がうくらいの程度の良を有している男だから、吾輩が偶君の談話を拝聴したって怒(おこ)らるる気遣(きづかい)はあるまい。もし怒られたら君は公平と云う意味を御承知ないのである。とにかく吾輩は両君の談話を聞いたのである。聞きたくて聴いたのではない。聞きたくもないのに談話の方で吾輩の耳の中へ飛び込んでたのである。

「今御宅へ伺いましたところで、ちょうどよい所で御目にかかりました」と藤(とう)さんは鄭寧(ていねい)に頭をぴょこつかせる。

「うむ、そうかえ。実はこないだから、君にちょっと逢いたいと思っていたがね。それはよかった」

「へえ、それは合でございました。何かごで」

「いや何、したでもないのさ。どうでもいいんだが、君でないとないなんだ」

「にるなら何でもやりましょう。どんなで」

「ええ、そう……」と考えている。

「何なら、御合のとき直して伺いましょう。いつが宜(よろ)しゅう、ございますか」

「なあに、そんなしたじゃ無いのさ。――それじゃせっかくだから頼もうか」

「どうか御遠慮なく……」

「あの変人ね。そら君の旧友さ。苦沙弥とか何とか云うじゃないか」

「ええ苦沙弥がどうかしましたか」

「いえ、どうもせんがね。あの件糞(むなくそ)がわるくってね」

「ごもっともで、全く苦沙弥は剛慢ですから……少しは分の社の位を考えているといいのですけれども、まるで一人ですから」

「そこさ。金に頭はさげん、実業なんぞ――とか何とか、いろいろ生意気なを云うから、そんなら実業の腕前を見せてやろう、と思ってね。こないだから分(だいぶ)弱らしているんだが、やっぱり頑張(がんば)っているんだ。どうも剛情な奴だ。驚ろいたよ」

「どうも損と云う観念の乏(とぼ)しい奴ですから無暗(むやみ)に痩我慢を張るんでしょう。昔からああ云う癖のある男で、つまり分の損になるに気が付かないんですから度(ど)し難(がた)いです」

「あはははほんとに度(ど)し難(がた)い。いろいろ手を易(か)え品を易(か)えてやって見るんだがね。とうとうしまいに校の生徒にやらした」

「そいつは妙案ですな。利目(ききめ)がございましたか」

「これにゃあ、奴も分(だいぶ)困ったようだ。もう遠からず落城するに極(きま)っている」

「そりゃ結構です。いくら威張っても勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)ですからな」

「そうさ、一人じゃあ仕方がねえ。それで分(だいぶ)弱ったようだが、まあどんな様子か君に行って見ててもらおうと云うのさ」

「はあ、そうですか。なに訳はありません。すぐ行って見ましょう。容子(ようす)は帰りがけに御報知を致すにして。面白いでしょう、あの頑固(がんこ)なのが意気銷沈(いきしょうちん)しているところは、きっと見物(みもの)ですよ」

「ああ、それじゃ帰りに御寄り、待っているから」

「それでは御免蒙(ごめんこうむ)ります」

おや今度もまた魂胆(こんたん)だ、なるほど実業の勢力はえらいものだ、石炭の燃殻(もえがら)のような主人を逆させるのも、苦悶(くもん)の結果主人の頭が蠅滑(はえすべ)りの難所となるのも、その頭がイスキラスと同様の運命に陥(おちい)るのも皆実業の勢力である。球が軸を廻転するのは何のかわからないが、世の中を動かすものはたしかに金である。この金の功力(くりき)をて、この金の威光を由に発揮するものは実業諸君をおいてほかに一人もない。太陽が無に東からて、無に西へ入るのも全く実業の御蔭である。今まではわからずやの窮措(きゅうそだい)のに養なわれて実業の御利益(ごりやく)を知らなかったのは、我ながら不覚である。それにしても冥頑不霊(めいがんふれい)の主人も今度は少し悟らずばなるまい。これでも冥頑不霊で押し通す了見だと危(あぶ)ない。主人のもっとも貴重する命があぶない。彼は鈴木君に逢ってどんな挨拶をするのか知らん。その模様で彼の悟り具合も(おのず)から分明(ぶんみょう)になる。愚図愚図してはおられん、猫だって主人のだから(おおい)に配になる。早々鈴木君をすり抜けて御先へ帰宅する。

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