正文 九 - 5

拝啓愈(いよいよ)御祥奉賀候(がしたてまつりそろ)回顧すれば日露の戦役は連戦連勝の勢(いきおい)に乗じて平克復を告げ吾忠勇義烈なる将士は今や過半万歳声裡(り)に凱歌を奏し国民の歓喜何ものか(これ)に若(し)かん曩(さき)に宣戦の詔煥発(たいしょうかんぱつ)せらるるや義勇公に奉じたる将士は久しく万の異境に在(あ)りて克(よ)く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従し命(めい)を国に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべからざる所なり(しこう)して軍隊の凱旋は本月をて殆(ほと)んど終了を告げんとす依って本はる二十五日を期し本区内一千有余の征将校士卒に対し本区民一般を代表して一凱旋祝賀を開催し兼て軍人遺族を慰藉(いしゃ)せんが為め熱誠(これ)を迎え聊(いささか)感謝の微衷(びちゅう)を表し度(たく)就(つい)ては各位の御協賛を仰ぎ此盛典を挙行するの幸(さいわい)をば本の面目不過(これにすぎず)と存候(そろ)間何卒(なにとぞ)御賛奮(ふる)って義捐(ぎえん)あらんことを管(ひたすら)希望の至に堪(た)えず候(そろ)敬具

とあって差しし人は華族様である。主人は黙読一過の後(のち)直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。義捐などは恐らくしそうにない。せんだって東北凶の義捐金を二円とか三円とかしてから、逢う人毎(ごと)に義捐をとられた、とられたと吹聴(ふいちょう)しているくらいである。義捐とあるは差しすもので、とられるものでないには極(きま)っている。泥棒にあったのではあるまいし、とられたとは不穏である。しかるにも関せず、盗難にでも罹(かか)ったかのごとくに思ってるらしい主人がいかに軍隊の歓迎だと云って、いかに華族様の勧誘だと云って、強談(ごうだん)で持ちかけたらいざ知らず、活版の手紙くらいで金銭をすような人間とは思われない。主人から云えば軍隊を歓迎する前にまず分を歓迎したいのである。分を歓迎した後(あと)なら抵のものは歓迎しそうであるが、分が朝夕(ちょうせき)に差(さ)し支(つか)える間は、歓迎は華族様に任(まか)せておく了見らしい。主人は二信を取りげたが「ヤ、これも活版だ」と云った。

時秋冷の候(こう)に候(そろ)処貴益々御隆盛の段奉賀候(がしあげたてまつりそろ)陳(のぶ)れば本校儀も御承知の通り一昨々年二三野の為めに妨げられ一時其極に達し候共(そうらえども)是れ皆不肖針(ふしょうしんさく)が足らざる所に因すと存じ深く(みずか)ら警(いまし)むる所あり臥薪甞胆(がしんしょうたん)其の苦辛(くしん)の結果漸(ようや)く茲(ここ)に独力て我が理に適するだけの校舎新築費をるの途を講じ候(そろ)其(そ)は別義にも御座なく別冊裁縫秘術綱と命名せる書冊版の義に御座候(そろ)本書は不肖針(しんさく)が年苦研究せる工芸の原理原則に法(のっ)とり真にを裂き血を絞るの思を為(な)して著述せるものに御座候(そろ)因(よ)って本書を普(あまね)く一般の庭へ製本実費に些少(さしょう)の利潤を附して御購求(ごこうきゅう)を願い一面斯(しどう)発達の一助となすと同時に又一面には僅少(きんしょう)の利潤を蓄積して校舎建築費につる算(つもり)に御座候(そろ)依っては近頃何共(なんとも)恐縮の至りに存じ候えども本校建築費中へ御寄附被(なしくださる)と御思召(おぼしめ)し茲(ここ)に呈供仕候(そろ)秘術綱一部を御購求の御侍女の方へなりとも御分与被候(なしくだされそろ)て御賛同の意を御表章被度(なしくだされたく)伏して懇願仕候(そろ) 々(そうそう)敬具

日本女子裁縫最高等院

校長縫田針(ぬいだしんさく)九拝

とある。主人はこの鄭重(ていちょう)なる書面を、冷淡に丸めてぽんと屑籠(くずかご)の中へ抛(ほう)り込んだ。せっかくの針君の九拝も臥薪甞胆も何の役にも立たなかったのは気の毒である。三信にかかる。三信はすこぶる風変りの光彩を放っている。状袋が紅白のだんだらで、飴(あめ)ん棒(ぼう)の板のごとくはなやかなる真中に珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)先生虎皮(こひか)と八分体(はっぷんたい)で太に認(したた)めてある。中からお太(た)さんがるかどうだか受け合わないが表(おもて)だけはすこぶる立派なものだ。

若(も)し我をてを律すれば一口(ひとくち)にして西江(せいこう)の水を吸いつくすべく、若(も)しをて我を律すれば我は則(すなわ)ち陌(はくじょう)の塵のみ。すべからく(い)え、と我と什麼(いんも)の渉かある。……始めて海鼠(なまこ)を食い(いだ)せる人は其胆力に於て敬すべく、始めて河豚(ふぐ)を喫(きつ)せる漢(おとこ)は其勇気に於(おい)て重んずべし。海鼠を食(くら)えるものは親鸞(しんらん)の再にして、河豚(ふぐ)を喫せるものは日蓮(にちれん)の分身なり。苦沙弥先生のきに至っては(ただ)干瓢(かんぴょう)の酢味噌(すみそ)を知るのみ。干瓢の酢味噌を食(くら)っての士たるものは、われ未(いま)だ(これ)を見ず。……

親友も汝(なんじ)を売るべし。父母(ふぼ)も汝に(わたくし)あるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴(ふっき)は固(もと)より頼みがたかるべし。爵禄(しゃくろく)は一朝(いっちょう)にして失うべし。汝の頭中に秘蔵する問には黴(かび)が生(は)えるべし。汝何を恃(たの)まんとするか。の裡(うち)に何をたのまんとするか。神?神は人間の苦しまぎれに捏造(でつぞう)せる土偶(どぐう)のみ。人間のせつな糞(ぐそ)の凝結せる臭骸のみ。恃(たの)むまじきを恃んで安しと云う。咄々(とつとつ)、酔漢漫(みだ)りに胡乱(うろん)の言辞を弄して、蹣跚(まんさん)として墓に向う。油尽きて灯(とう)(おのずか)ら滅す。業尽きて何物をか遺(のこ)す。苦沙弥先生よろしく御茶でもがれ。……

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