正文 九 - 6

人を人と思わざれば畏(おそ)るる所なし。人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世を憤(いきどお)るは何(いかん)。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於てたるがし。(ただ)他(ひと)の吾を吾と思わぬ時に於て怫(ふつぜん)として色を(な)す。任意に色をしれ。馬鹿野郎。……

吾の人を人と思うとき、他(ひと)の吾を吾と思わぬ時、不平は発的(ほっさてき)に降(あまくだ)る。此発的活動を名づけて革命という。革命は不平の所為にあらず。権貴栄達の士がんで産する所なり。朝鮮に人参(にんじん)し先生何が故に服せざる。

在巣鴨公平(てんどうこうへい)再拝

針君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄附金の依頼でないだけに七拝ほど横風(おうふう)に構えている。寄附金の依頼ではないがその代りすこぶる分りにくいものだ。どこの雑誌へしても書になる価値は充分あるのだから、頭脳の不透明をもって鳴る主人は必ず寸断寸断(ずたずた)に引き裂いてしまうだろうと思(おもい)のほか、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手紙に意味があると考えて、あくまでその意味を究(きわ)めようという決かも知れない。およその間(かん)にわからんものは沢山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも解釈しようとすれば容易に解釈のるものだ。人間は馬鹿であると云おうが、人間は利口であると云おうが手もなくわかるだ。それどころではない。人間は犬であると云っても豚であると云っても別に苦しむほどの命題ではない。山は低いと云っても構わん、宇宙は狭いと云っても差(さ)し支(つか)えはない。烏が白くて町が醜婦で苦沙弥先生が君子でも通らんはない。だからこんな無意味な手紙でも何とか蚊(か)とか理窟(りくつ)さえつければどうとも意味はとれる。ことに主人のように知らぬ英語を無理矢理にこじ附けて説明し通してた男はなおさら意味をつけたがるのである。気の悪るいのになぜグード·モーニングですかと生徒に問われて七日間(なぬかかん)考えたり、コロンバスと云う名は日本語で何と云いますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫するくらいな男には、干瓢(かんぴょう)の酢味噌(すみそ)がの士であろうと、朝鮮の仁参(にんじん)を食って革命をそうと随意な意味は随処に湧(わ)きる訳である。主人はしばらくしてグード·モーニング流にこの難解な言句(ごんく)を呑み込んだと見えて「なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。晴(あっぱれ)な見識だ」と変賞賛した。この一言(いちごん)でも主人の愚(ぐ)なところはよく分るが、翻(ひるがえ)って考えて見るといささかもっともな点もある。主人は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限ったでもなかろう。分らぬところには馬鹿にないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高(けだか)い持がるものだ。それだから俗人はわからぬをわかったように吹聴(ふいちょう)するにも係(かかわ)らず、者はわかったをわからぬように講釈する。の講義でもわからんを喋舌(しゃべ)る人は評判がよくってわかるを説明する者は人望がないのでもよく知れる。主人がこの手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。その主旨が那辺(なへん)に存するかほとんど捕(とら)え難いからである。急に海鼠(なまこ)がてたり、せつな糞(ぐそ)がてくるからである。だから主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、(どうけ)で徳経を尊敬し、儒(じゅか)で易経(えききょう)を尊敬し、禅(ぜんけ)で臨済録(りんざいろく)を尊敬すると一般で全く分らんからである。但(ただ)し全分らんでは気がすまんから勝手な註釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。――主人は恭(うやうや)しく八分体(はっぷんたい)の名筆を巻き納めて、これを机に置いたまま懐手(ふところで)をして冥(めいそう)に沈んでいる。

ところへ「頼む頼む」と玄関からきな声で案内を乞う者がある。声は迷亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。主人は先から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のまま毫(ごう)も動こうとしない。取次にるのは主人の役目でないという主義か、この主人は決して書斎から挨拶をしたがない。女は先刻(さっき)洗濯(せんたく)石鹸(シャボン)を買いにた。細君は憚(はばか)りである。すると取次にべきものは吾輩だけになる。吾輩だってるのはいやだ。すると客人は沓(くつぬぎ)から敷台へ飛びがって障子を開け放ってつかつかり込んでた。主人も主人だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うと襖(ふすま)を二三度あけたり閉(た)てたりして、今度は書斎の方へやってくる。

「おい冗談(じょうだん)じゃない。何をしているんだ、御客さんだよ」

「おや君か」

「おや君かもないもんだ。そこにいるなら何とか云えばいいのに、まるで空(あきや)のようじゃないか」

「うん、ちと考えがあるもんだから」

「考えていたって通れくらいは云えるだろう」

「云えんもないさ」

「相変らず度がいいね」

「せんだってから精神の修養を力(つと)めているんだもの」

「物きだな。精神を修養して返がなくなった日には客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人たんじゃないよ。変な御客さんを連れてたんだよ。ちょっとて逢ってくれ給え」

「誰を連れてたんだい」

「誰でもいいからちょっとて逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいと云うんだから」

「誰だい」

「誰でもいいから立ちたまえ」

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