正文 九 - 7

主人は懐手(ふところで)のままぬっと立ちながら「また人を担(かつ)ぐつもりだろう」と椽側(えんがわ)へて何の気もつかずに客間へ這入(はい)り込んだ。すると六尺の床を正面に一個の老人が粛(しゅくぜん)と端坐(たんざ)して控(ひか)えている。主人は思わず懐から両手をしてぺたりと唐紙(からかみ)の傍(そば)へ尻を片づけてしまった。これでは老人と同じく西向きであるから双方共挨拶のしようがない。昔堅気(むかしかたぎ)の人は礼義はやかましいものだ。

「さあどうぞあれへ」と床の間の方を指して主人を促(うな)がす。主人は両三年前までは座敷はどこへ坐っても構わんものとていたのだが、その後(ご)ある人から床の間の講釈を聞いて、あれは段の間(ま)の変化したもので、使(じょうし)が坐わる所だと悟って決して床の間へは寄りつかない男である。ことに見ず知らずの年長者が頑(がん)と構えているのだから座(じょうざ)どころではない。挨拶さえ碌(ろく)にはない。一応頭をさげて

「さあどうぞあれへ」と向うの云う通りを繰り返した。

「いやそれでは御挨拶がかねますから、どうぞあれへ」

「いえ、それでは……どうぞあれへ」と主人はいい加減に先方の口を真似ている。

「どうもそう、御謙遜(ごけんそん)では恐れ入る。かえって手前が痛み入る。どうか御遠慮なく、さあどうぞ」

「御謙遜では……恐れますから……どうか」主人は真赤(まっか)になって口をもごもご云わせている。精神修養もあまり効果がないようである。迷亭君は襖(ふすま)の影から笑いながら立見をしていたが、もういい時分だと思って、後(うし)ろから主人の尻を押しやりながら

「まあたまえ。そう唐紙(からかみ)へくっついては僕が坐る所がない。遠慮せずに前へたまえ」と無理に割り込んでくる。主人はやむをず前の方へすりる。

「苦沙弥君これが毎々君に噂をする静岡の伯父だよ。伯父さんこれが苦沙弥君です」

「いや始めて御目にかかります、毎度迷亭がて御邪魔を致すそうで、いつか参の御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い今日(こんにち)は御近所を通行致したもので、御礼旁(かたがた)伺った訳で、どうぞ御見知りおかれまして今後共宜(よろ)しく」と昔(むか)し風な口を淀(よど)みなく述べたてる。主人は際の狭い、無口な人間であるに、こんな古風な爺(じい)さんとはほとんどったがないのだから、最初から少場(ば)うての気味で辟易(へきえき)していたところへ、滔々(とうとう)と浴びせかけられたのだから、朝鮮仁参(ちょうせんにんじん)も飴(あめ)ん棒の状袋もすっかり忘れてしまってただ苦しまぎれに妙な返をする。

「も……も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしく」と云い終って頭を少々畳からげて見ると老人は未(いま)だに平伏しているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと着けた。

老人は呼吸を計って首をあげながら「ももとはこちらに屋敷も在(あ)って、永らく御膝元でくらしたものでがすが、瓦解(がかい)の折にあちらへ参ってからとんとてこんのでな。今て見るとまるで方角も分らんくらいで、――迷亭にでも伴(つ)れてあるいてもらわんと、とても達(ようたし)もません。滄桑(そうそう)の変(へん)とは申しながら、御入国(ごにゅうこく)三百年も、あの通り将軍の……」と云いかけると迷亭先生面倒だとて

「伯父さん将軍もありがたいかも知れませんが、明治の代(よ)も結構ですぜ。昔は赤十字なんてものもなかったでしょう」

「それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御顔を拝むなどと云うは明治の御代(みよ)でなくてはぬだ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日(こんにち)の総にも席するし、宮殿の御声もきくし、もうこれで死んでもいい」

「まあ久し振りで東京見物をするだけでもですよ。苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総があるのでわざわざ静岡からててね、今日いっしょに野へ掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。袖(そで)が長過ぎて、襟(えり)がおっ開(ぴら)いて、背中(せなか)へ池がて、腋(わき)のが釣るしがっている。いくら不恰(ぶかっこう)にろうと云ったって、こうまで念を入れて形を崩(くず)す訳にはゆかないだろう。その白シャツと白襟(しろえり)が離れ離れになって、仰(あお)むくと間から咽喉仏(のどぼとけ)が見える。一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか判(はんぜん)しない。フロックはまだ我慢がるが白髪(しらが)のチョン髷(まげ)ははなはだ奇観である。評判の鉄扇(てっせん)はどうかと目を注(つ)けると膝の横にちゃんと引きつけている。主人はこの時ようやく本に立ち返って、精神修養の結果を存分に老人の服装に応して少々驚いた。まさか迷亭の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話である。もし分のあばたが歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョン髷(まげ)や鉄扇はたしかにそれの価値がある。主人はどうかしてこの鉄扇の由を聞いて見たいと思ったが、まさか、打ちつけに質問する訳には行かず、と云って話を途切らすのも礼に欠けると思って

「だいぶ人がましたろう」と極(きわ)めて尋常な問をかけた。

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