正文 九 - 8

「いや非常な人で、それでその人が皆わしをじろじろ見るので――どうも近は人間が物見高くなったようでがすな。昔(むか)しはあんなではなかったが」

「ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな」と老人らしいを云う。これはあながち主人が知(し)っ高振(たかぶ)りをした訳ではない。ただ朦朧(もうろう)たる頭脳からい加減に流れす言語と見れば差(さ)し支(つか)えない。

「それにな。皆この甲割(かぶとわ)りへ目を着けるので」

「その鉄扇は分(だいぶ)重いものでございましょう」

「苦沙弥君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たして御覧なさい」

老人は重たそうに取りげて「失礼でがすが」と主人に渡す。京の黒谷(くろだに)で参詣人(さんけいにん)が蓮生坊(れんしょうぼう)の太刀(たち)を戴(いただ)くようなかたで、苦沙弥先生しばらく持っていたが「なるほど」と云ったまま老人に返却した。

「みんながこれを鉄扇鉄扇と云うが、これは甲割(かぶとわり)と称(とな)えて鉄扇とはまるで別物で……」

「へえ、何にしたものでございましょう」

「兜を割るので、――敵の目がくらむ所を撃(う)ちとったものでがす。楠正(くすのきまさしげ)時代からいたようで……」

「伯父さん、そりゃ正の甲割ですかね」

「いえ、これは誰のかわからん。しかし時代は古い。建武時代(けんむじだい)のかも知れない」

「建武時代かも知れないが、寒月君は弱っていましたぜ。苦沙弥君、今日帰りにちょうどいい機だからを通り抜けるついでに理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割が鉄だものだから、磁力の器械が狂って騒ぎさ」

「いや、そんなはずはない。これは建武時代の鉄で、(しょう)のいい鉄だから決してそんな虞(おそ)れはない」

「いくらのいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月がそう云ったから仕方がないです」

「寒月というのは、あのガラス球(だま)を磨(す)っている男かい。今の若さに気の毒なだ。もう少し何かやるがありそうなものだ」

「愛(かわいそう)に、あれだって研究でさあ。あの球を磨りげると立派な者になれるんですからね」

「玉を磨(す)りあげて立派な者になれるなら、誰にでもる。わしにでもる。ビードロやの主人にでもる。ああ云うをする者を漢土(かんど)では玉人(きゅうじん)と称したもので至って身分の軽いものだ」と云いながら主人の方を向いて暗に賛を求める。

「なるほど」と主人はかしこまっている。

「すべて今の世の問は皆形(けいじか)のでちょっと結構なようだが、いざとなるとすこしも役には立ちませんてな。昔はそれと違って侍(さむらい)は皆命懸(いのちが)けの商買(しょうばい)だから、いざと云う時に狼狽(ろうばい)せぬようにの修業を致したもので、御承知でもあらっしゃろうがなかなか玉を磨ったり針金を綯(よ)ったりするような容易(たやす)いものではなかったのでがすよ」

「なるほど」とやはりかしこまっている。

「伯父さんの修業と云うものは玉を磨る代りに懐手(ふところで)をして坐り込んでるんでしょう」

「それだから困る。決してそんな造(ぞうさ)のないものではない。孟子(もうし)は求放(きゅうほうしん)と云われたくらいだ。邵康節(しょうこうせつ)は放(しんようほう)と説いたもある。また仏(ぶっか)では中峯尚(ちゅうほうおしょう)と云うのが具不退転(ぐふたいてん)と云うを教えている。なかなか容易には分らん」

「とうてい分りっこありませんね。全体どうすればいいんです」

「御前は沢菴禅師(たくあんぜんじ)の不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)というものを読んだがあるかい」

「いいえ、聞いたもありません」

「をどこに置こうぞ。敵の身の働(はたらき)にを置けば、敵の身の働にを取らるるなり。敵の太刀(たち)にを置けば、敵の太刀にを取らるるなり。敵を切らんと思うところにを置けば、敵を切らんと思うところにを取らるるなり。わが太刀にを置けば、我太刀にを取らるるなり。われ切られじと思うところにを置けば、切られじと思うところにを取らるるなり。人の構(かまえ)にを置けば、人の構にを取らるるなり。とかくの置きどころはないとある」

「よく忘れずに暗誦(あんしょう)したものですね。伯父さんもなかなか記憶がいい。長いじゃありませんか。苦沙弥君分ったかい」

「なるほど」と今度もなるほどですましてしまった。

「なあ、あなた、そうでござりましょう。をどこに置こうぞ、敵の身の働にを置けば、敵の身の働にを取らるるなり。敵の太刀にを置けば……」

「伯父さん苦沙弥君はそんなは、よくているんですよ。近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。客があっても取次にないくらいを置きりにしているんだから丈夫ですよ」

「や、それは御奇特(ごきどく)なで――御前などもちとごいっしょにやったらよかろう」

「へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは分が楽なからだだもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」

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