正文 九 - 12

差人が金箔(きんぱく)つきの狂人であると知ってから、最前の熱と苦が何だか無駄骨のような気がして腹立たしくもあり、また瘋癲病(ふうてんびょう)者の文章をさほど労して翫味(がんみ)したかと思うと恥ずかしくもあり、最後に狂人のにこれほど感服するは分も少神経に異状がありはせぬかとの疑念もあるので、立腹と、慚愧(ざんき)と、配の合併した状態で何だか落ちつかない顔付をして控(ひか)えている。

折から表格子をあららかに開けて、重い靴の音が二た足ほど沓(くつぬぎ)に響いたと思ったら「ちょっと頼みます、ちょっと頼みます」ときな声がする。主人の尻の重いに反して迷亭はまたすこぶる気軽な男であるから、御三(おさん)の取次にるのも待たず、通れと云いながら隔ての中の間(ま)を二た足ばかりに飛び越えて玄関に躍(おど)りした。人のうちへ案内も乞わずにつかつか這入(はい)り込むところは迷惑のようだが、人のうちへ這入ったは書生同様取次を務(つと)めるからはなはだ便利である。いくら迷亭でも御客さんには相違ない、その御客さんが玄関へ張するのに主人たる苦沙弥先生が座敷へ構え込んで動かん法はない。普通の男ならあとから引き続いて陣すべきはずであるが、そこが苦沙弥先生である。平気に座布団のへ尻を落ちつけている。但(ただ)し落ちつけているのと、落ちついているのとは、その趣は分(だいぶ)似ているが、その実質はよほど違う。

玄関へ飛びした迷亭は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向いて「おい御主人ちょっと御足労だがてくれたまえ。君でなくっちゃ、間に合わない」ときな声をす。主人はやむをず懐手(ふところで)のままのそりのそりとてくる。見ると迷亭君は一枚の名刺を握ったまましゃがんで挨拶をしている。すこぶる威厳のない腰つきである。その名刺には警視庁刑巡査吉田虎蔵(よしだとらぞう)とある。虎蔵君と並んで立っているのは二十五六の背(せい)の高い、いなせな唐桟(とうざん)ずくめの男である。妙なにこの男は主人と同じく懐手をしたまま、無言で突立(つった)っている。何だか見たような顔だと思ってよくよく観察すると、見たようなどころじゃない。この間深夜御訪になって山(やま)の芋(いも)を持って行かれた泥棒君である。おや今度は白昼公と玄関からおいでになったな。

「おいこの方(かた)は刑巡査でせんだっての泥棒をつらまえたから、君に頭しろと云うんで、わざわざおいでになったんだよ」

主人はようやく刑が踏み込んだ理由が分ったと見えて、頭をさげて泥棒の方を向いて鄭寧(ていねい)に御辞儀をした。泥棒の方が虎蔵君より男振りがいいので、こっちが刑だと早合点(はやがてん)をしたのだろう。泥棒も驚ろいたに相違ないが、まさか(わたし)が泥棒ですよと断わる訳にも行かなかったと見えて、すまして立っている。やはり懐手のままである。もっとも手錠(てじょう)をはめているのだから、そうと云ってもる気遣(きづかい)はない。通例のものならこの様子でたいていはわかるはずだが、この主人は世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。御(おかみ)の御威光となると非常に恐しいものとている。もっとも理論から云うと、巡査なぞは分達が金をして番人に雇っておくのだくらいのはているのだが、実際に臨むといやにへえへえする。主人のおやじはその昔場末の名主であったから、の者にぴょこぴょこ頭をげて暮した習慣が、因果となってかように子に酬(むく)ったのかも知れない。まことに気の毒な至りである。

巡査はおかしかったと見えて、にやにや笑いながら「あしたね、午前九時までに日本堤(にほんづつみ)の分署までてさい。――盗難品は何と何でしたかね」

「盗難品は……」と云いかけたが、あいにく先生たいがい忘れている。ただ覚えているのは々良三平(たたらさんぺい)の山の芋だけである。山の芋などはどうでも構わんと思ったが、盗難品は……と云いかけてあとがないのはいかにも与太郎(よたろう)のようで体裁(ていさい)がわるい。人が盗まれたのならいざ知らず、分が盗まれておきながら、明瞭の答がんのは一人前(いちにんまえ)ではない証拠だと、思い切って「盗難品は……山の芋一箱」とつけた。

泥棒はこの時よほどおかしかったと見えて、を向いて着物の襟(えり)へあごを入れた。迷亭はアハハハと笑いながら「山の芋がよほど惜しかったと見えるね」と云った。巡査だけは存外真面目である。

「山の芋はないようだがほかの物件はたいがい戻ったようです。――まあて見たら分るでしょう。それでね、げ渡したら請書(うけしょ)が入るから、印形(いんぎょう)を忘れずに持っておいでなさい。――九時までになくってはいかん。日本堤(にほんづつみ)分署(ぶんしょ)です。――浅草警察署の管轄内(かんかつない)の日本堤分署です。――それじゃ、さようなら」と独(ひと)りで弁じて帰って行く。泥棒君も続いて門をる。手がせないので、門をしめるがないから開け放しのまま行ってしまった。恐れ入りながらも不平と見えて、主人は頬をふくらして、ぴしゃりと立て切った。

「アハハハ君は刑を変尊敬するね。つねにああ云う恭謙(きょうけん)な態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧(ていねい)なんだから困る」

「だってせっかく知らせててくれたんじゃないか」

「知らせにるったって、先は商売だよ。り前にあしらってりゃ沢山だ」

「しかしただの商売じゃない」

「無論ただの商売じゃない。探偵と云ういけすかない商売さ。あたり前の商売より等だね」

「君そんなを云うと、ひどい目に逢うぜ」

「ハハハそれじゃ刑の悪口(わるくち)はやめにしよう。しかし刑を尊敬するのは、まだしもだが、泥棒を尊敬するに至っては、驚かざるをんよ」

「誰が泥棒を尊敬したい」

「君がしたのさ」

「僕が泥棒に近付きがあるもんか」

「あるもんかって君は泥棒にお辞儀をしたじゃないか」

「いつ?」

「たった今平身低頭(へいしんていとう)したじゃないか」

「馬鹿あ云ってら、あれは刑だね」

「刑があんななりをするものか」

「刑だからあんななりをするんじゃないか」

「頑固(がんこ)だな」

「君こそ頑固だ」

「まあ一、刑が人の所へてあんなに懐手(ふところで)なんかして、突立(つった)っているものかね」

「刑だって懐手をしないとは限るまい」

「そう猛烈にやってては恐れ入るがね。君がお辞儀をする間あいつは始終あのままで立っていたのだぜ」

「刑だからそのくらいのはあるかも知れんさ」

「どうも信だな。いくら云っても聞かないね」

「聞かないさ。君は口先ばかりで泥棒だ泥棒だと云ってるだけで、その泥棒がはいるところを見届けた訳じゃないんだから。ただそう思って独(ひと)りで強情を張ってるんだ」

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