正文 十 - 6

姉のとん子は、分の箸と茶碗を坊ばに掠奪(りゃくだつ)されて、不相応にさな奴をもってさっきから我慢していたが、もともとさ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって頻繁(ひんぱん)に御はちの方へ手がる。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちの蓋(ふた)をあけてきなしゃもじを取りげて、しばらく眺(なが)めていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決したものと見えて、焦(こ)げのなさそうなところを見計って一掬(ひとしゃく)いしゃもじのへ乗せたまでは無難(ぶなん)であったが、それを裏返して、ぐいと茶碗のをこいたら、茶碗に入(はい)りきらん飯は塊(かた)まったまま畳のへ転(ころ)がりした。とん子は驚ろく景色(けしき)もなく、こぼれた飯を鄭寧(ていねい)に拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。

坊ばが一活躍を試みて箸を刎(は)ねげた時は、ちょうどとん子が飯をよそい了(おわ)った時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱雑なのを見かねて「あら坊ばちゃん、変よ、顔が御(ご)ぜん粒だらけよ」と云いながら、早速(さっそく)坊ばの顔の掃除にとりかかる。一に鼻のあたまに寄寓(きぐう)していたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。それから頬(ほ)っぺたにかかる。ここには分(だいぶ)群(ぐん)をなして数(かず)にしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく沢庵(たくあん)をかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋(さつまいも)のくずれたのをしゃくいして、勢よく口の内へ抛(ほう)り込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中(こうちゅう)にこたえる者はない。人(おとな)ですら注意しないと火傷(やけど)をしたような持ちがする。ましてすん子のごとき、薩摩芋に経験の乏(とぼ)しい者は無論狼狽(ろうばい)する訳である。すん子はワッと云いながら口中(こうちゅう)の芋を食卓のへ吐きした。その二三片(ぺん)がどう云う拍子か、坊ばの前まですべってて、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばは固(もと)より薩摩芋がきである。きな薩摩芋が眼の前へ飛んでたのだから、早速箸を抛(ほう)りして、手攫(てづか)みにしてむしゃむしゃ食ってしまった。

先刻(さっき)からこの体(てい)たらくを目撃していた主人は、一言(いちごん)も云わずに、専分の飯を食い、分の汁を飲んで、この時はすでに楊枝(ようじ)を使っている最中であった。主人は娘の教育に関して絶体的放任主義を執(と)るつもりと見える。今に三人が海老茶式部(えびちゃしきぶ)か鼠式部(ねずみしきぶ)かになって、三人とも申し合せたように情夫(じょうふ)をこしらえて奔(しゅっぽん)しても、やはり分の飯を食って、分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのないだ。しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣ると、先へ廻って馬の眼玉を抜くと、虚勢を張って人をおどかすと、鎌(かま)をかけて人を陥(おとしい)れるよりほかに何も知らないようだ。中などの少年輩までが見様見真似(みようみまね)に、こうしなくては幅が利(き)かないと違いをして、本なら赤面してしかるべきのを々(とくとく)と履行(りこう)して未の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。吾輩も日本の猫だから少の愛国はある。こんな働き手を見るたびに撲(なぐ)ってやりたくなる。こんなものが一人でも殖(ふ)えれば国はそれだけ衰える訳である。こんな生徒のいる校は、校の恥辱であって、こんな人民のいる国は国の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのはがたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情(なさけ)ないだ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥(はる)かに等な人間と云わなくてはならん。意気のないところが等なのである。無なところが等なのである。猪口才(ちょこざい)でないところが等なのである。

かくのごとく働きのない食い方をもって、無に朝食(あさめし)を済ましたる主人は、やがて洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ頭に及んだ。格子(こうし)をあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。あの遊廓のある吉原の近辺の日本堤だぜと念を押したのは少々滑稽(こっけい)であった。

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