主人が珍らしく車で玄関から掛けたあとで、妻君は例のごとく食を済ませて「さあ校へおいで。遅くなりますよ」と催促すると、供は平気なもので「あら、でも今日は御休みよ」と支度(したく)をする景色(けしき)がない。「御休みなもんですか、早くなさい」と叱(しか)るように言って聞かせると「それでも昨日(きのう)、先生が御休だって、おっしゃってよ」と姉はなかなか動じない。妻君もここに至って少変に思ったものか、戸棚から暦(こよみ)をして繰り返して見ると、赤い字でちゃんと御祭日とている。主人は祭日とも知らずに校へ欠勤届をしたのだろう。細君も知らずに郵便箱へ抛(ほう)り込んだのだろう。ただし迷亭に至っては実際知らなかったのか、知って知らん顔をしたのか、そこは少々疑問である。この発明におやと驚ろいた妻君はそれじゃ、みんなでおとなしく御遊びなさいと平生(いつも)の通り針箱をして仕に取りかかる。
その後(ご)三十分間は内平穏、別段吾輩の材料になるような件もらなかったが、突妙な人が御客にた。十七八の女生である。踵(かかと)のまがった靴を履(は)いて、紫色の袴(はかま)を引きずって、髪を算盤珠(そろばんだま)のようにふくらまして勝手口から案内も乞(こ)わずに(あが)ってた。これは主人の姪(めい)である。校の生徒だそうだが、折々日曜にやってて、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く雪江(ゆきえ)とか云う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へて一二町あるけば必ず逢える人相である。
「叔母さん今日は」と茶の間へつかつか這入(はい)ってて、針箱の横へ尻をおろした。
「おや、よく早くから……」
「今日は祭日ですから、朝のうちにちょっとがろうと思って、八時半頃から(うち)をて急いでたの」
「そう、何かがあるの?」
「いいえ、ただあんまり御無沙汰をしたから、ちょっとがったの」
「ちょっとでなくっていいから、緩(ゆっ)くり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰ってますから」
「叔父さんは、もう、どこへかいらしったの。珍らしいのね」
「ええ今日はね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう」
「あら、何で?」
「この春這入(はい)った泥棒がつらまったんだって」
「それで引き合にされるの?いい迷惑ね」
「なあに品物が戻るのよ。取られたものがたから取りにいって、昨日(きのう)巡査がわざわざたもんですから」
「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが掛けるはないわね。いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ」
「叔父さんほど、寝坊はないんですから……そうしてこすとぷんぷん怒(おこ)るのよ。今朝なんかも七時までに是非おこせと云うから、こしたんでしょう。すると夜具の中へ潜(もぐ)って返もしないんですもの。こっちは配だから二度目にまたおこすと、夜着(よぎ)の袖(そで)から何か云うのよ。本にあきれ返ってしまうの」
「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「何ですか」
「本にむやみに怒る方(かた)ね。あれでよく校が勤まるのね」
「なに校じゃおとなしいんですって」
「じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)ね」
「なぜ?」
「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか」
「ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と云えば左、左と云えば右で、何でも人の言う通りにしたがない、――そりゃ強情ですよ」
「探女(あまのじゃく)でしょう。叔父さんはあれが楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うらを云うと、こっちの思い通りになるのよ。こないだ蝙蝠傘(こうもり)を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと云ったら、いらないがあるものかって、すぐ買ってすったの」