正文 十 - 9

「あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって」

「面白いのね。それから?」

「わたちは田圃(たんぼ)へ稲刈いに」

「そう、よく知ってる」

「御前がくうと邪魔(だま)になる」

「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととん子が口をす。坊ばは相変らず「ばぶ」と一喝(いっかつ)して直ちに姉を辟易(へきえき)させる。しかし中途で口をされたものだから、続きを忘れてしまって、あとがてない。「坊ばちゃん、それぎりなの?」と雪江さんが聞く。

「あのね。あとでおならは御免(ごめん)だよ。ぷう、ぷうぷうって」

「ホホホホ、いやだ、誰にそんなを、教わったの?」

「御三(おたん)に」

「わるい御三(おさん)ね、そんなを教えて」と妻君は苦笑をしていたが「さあ今度は雪江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ」と云うと、さすがの暴君も納(なっとく)したと見えて、それぎり分の間は沈黙した。

「八木先生の演説はこんなのよ」と雪江さんがとうとう口を切った。「昔ある辻(つじ)の真中にきな石蔵があったんですってね。ところがそこがあいにく馬や車が通る変賑(にぎ)やかな場所だもんだから邪魔になって仕様がないんでね、町内のものが勢寄って、相談をして、どうしてこの石蔵を隅の方へ片づけたらよかろうって考えたんですって」

「そりゃ本にあった話なの?」

「どうですか、そんなは何ともおっしゃらなくってよ。――でみんながいろいろ相談をしたら、その町内で一番強い男が、そりゃ訳はありません、わたしがきっと片づけて見せますって、一人でその辻へ行って、両肌(もろはだ)を抜いで汗を流して引っ張ったけれども、どうしても動かないんですって」

「よっぽど重い石蔵なのね」

「ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、町内のものはまた相談をしたんですね。すると今度は町内で一番利口な男が、(わたし)に任せて御覧なさい、一番やって見ますからって、重箱のなかへ牡丹餅(ぼたもち)を一杯入れて、蔵の前へて、『ここまでおいで』と云いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって、蔵だって食意(くいいじ)が張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、少しも動かないんだって。利口な男はこれではいけないと思ってね。今度は瓢箪(ひょうたん)へお酒を入れて、その瓢箪を片手へぶらげて、片手へ猪口(ちょこ)を持ってまた蔵さんの前へて、さあ飲みたくはないかね、飲みたければここまでおいでと三時間ばかり、からかって見たがやはり動かないんですって」

「雪江さん、蔵様は御腹(おなか)が減(へ)らないの」ととん子がきくと「牡丹餅が食べたいな」とすん子が云った。

「利口な人は二度共しくじったから、その次には贋札(にせさつ)を沢山こしらえて、さあしいだろう、しければ取りにおいでと札をしたり引っ込ましたりしたがこれもまるで益(やく)に立たないんですって。よっぽど頑固(がんこ)な蔵様なのよ」

「そうね。すこし叔父さんに似ているわ」

「ええまるで叔父さんよ、しまいに利口な人も愛(あいそ)をつかしてやめてしまったんですとさ。それでそのあとからね、きな法螺(ほら)を吹く人がて、(わたし)ならきっと片づけて見せますからご安なさいとさも容易(たやす)いのように受合ったそうです」

「その法螺を吹く人は何をしたんです」

「それが面白いのよ。最初にはね巡査の服をきて、付(つ)け髯(ひげ)をして、蔵様の前へきて、こらこら、動かんとその方のためにならんぞ、警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。今の世に警察の仮声(こわいろ)なんか使ったって誰も聞きゃしないわね」

「本ね、それで蔵様は動いたの?」

「動くもんですか、叔父さんですもの」

「でも叔父さんは警察には変恐れ入っているのよ」

「あらそう、あんな顔をして?それじゃ、そんなに怖(こわ)いはないわね。けれども蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹は変怒(おこ)って、巡査の服をいで、付け髯を紙屑籠(かみくずかご)へ抛(ほう)り込んで、今度は金持ちの服装(なり)をしててたそうです。今の世で云うと岩崎男爵のような顔をするんですとさ。おかしいわね」

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