正文 十 - 15

主人は座布団(ざぶとん)を押しやりながら、「さあお敷き」と云ったが毬栗先生はかたくなったまま「へえ」と云って動かない。鼻の先に剥(は)げかかった更紗(さらさ)の座布団が「御乗んなさい」とも何とも云わずに着席している後(うし)ろに、生きた頭がつくねんと着席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために細君が勧工場から仕入れてたのではない。布団にして敷かれずんば、布団はまさしくその名誉を毀損(きそん)せられたるもので、これを勧めたる主人もまた幾分か顔が立たないになる。主人の顔を潰(つぶ)してまで、布団と睨(にら)めくらをしている毬栗君は決して布団その物が嫌(きらい)なのではない。実を云うと、正式に坐ったは祖父(じい)さんの法の時のほかは生れてから滅(めった)にないので、先(さ)っきからすでにしびれが切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰に控(ひか)えているにもかかわらず敷かない。主人がさあお敷きと云うのに敷かない。厄介な毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら人数(たにんず)集まった時もう少し遠慮すればいいのに、校でもう少し遠慮すればいいのに、宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ気兼(きがね)をして、すべき時には謙遜(けんそん)しない、否(おおい)に狼藉(ろうぜき)を働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。

ところへ後(うし)ろの襖(ふすま)をすうと開けて、雪江さんが一碗の茶を恭(うやうや)しく坊主に供した。平生なら、そらサヴェジ·チーがたと冷(ひ)やかすのだが、主人一人に対してすら痛み入(い)っているへ、妙齢の女(にょしょう)が校で覚え立ての笠原流(おがさわらりゅう)で、乙(おつ)に気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、坊主は(おおい)に苦悶(くもん)の体(てい)に見える。雪江さんは襖(ふすま)をしめる時に後ろからにやにやと笑った。して見ると女は同年輩でもなかなかえらいものだ。坊主に比すれば遥(はる)かに度が据(す)わっている。ことに先刻(さっき)の無念にはらはらと流した一滴の紅涙(こうるい)のあとだから、このにやにやがさらに目立って見えた。

雪江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくの間は辛防(しんぼう)していたが、これでは業(ぎょう)をするようなものだと気がついた主人はようやく口を開いた。

「君は何とか云ったけな」

「古井(ふるい)……」

「古井?古井何とかだね。名は」

「古井武右衛門(ぶえもん)」

「古井武右衛門――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」

「いいえ」

「三年生か?」

「いいえ、二年生です」

「甲の組かね」

「乙です」

「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と主人は感している。実はこの頭は入の時から、主人の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし呑気(のんき)な主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものをまた二年乙組に連結するがなかったのである。だからこの夢に見るほど感した頭が分の監督組の生徒であると聞いて、思わずそうかとの裏(うち)で手を拍(う)ったのである。しかしこのきな頭の、古い名の、しかも分の監督する生徒が何のために今頃やってたのか頓(とん)と推諒(すいりょう)ない。元不人望な主人のだから、校の生徒などは正月だろうが暮だろうがほとんど寄りついたがない。寄りついたのは古井武右衛門君をもって嚆矢(こうし)とするくらいな珍客であるが、その訪の主意がわからんには主人も(おおい)に閉口しているらしい。こんな面白くない人の(うち)へただ遊びにくる訳もなかろうし、また辞職勧告ならもう少し昂(こうぜん)と構え込みそうだし、と云って武右衛門君などが一身の相談があるはずがないし、どっちから、どう考えても主人には分らない。武右衛門君の様子を見るとあるいは本人身にすら何で、ここまで参ったのか判しないかも知れない。仕方がないから主人からとうとう表向に聞きした。

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