正文 十 - 18

かように考えて面白いなと思っていると、格子(こうし)ががらがらとあいて、玄関の障子(しょうじ)の蔭から顔が半分ぬうとた。

「先生」

主人は武右衛門君に「そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、誰だろうとそっちを見ると半分ほど筋違(すじかい)に障子から食(は)みしている顔はまさしく寒月君である。「おい、御這入(おはい)り」と云ったぎり坐っている。

「御客ですか」と寒月君はやはり顔半分で聞き返している。

「なに構わん、まあ御(おあ)がり」

「実はちょっと先生を誘いにたんですがね」

「どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだっては無闇(むやみ)にあるかせられて、足が棒のようになった」

「今日は丈夫です。久し振りにませんか」

「どこへるんだい。まあ御がり」

「野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」

「つまらんじゃないか、それよりちょっと御り」

寒月君はとうてい遠方では談判不調と思ったものか、靴をいでのそのそがってた。例のごとく鼠色(ねずみいろ)の、尻につぎの中(あた)ったずぼんを穿(は)いているが、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、本人の弁解によると近頃転車の稽古を始めて局部に比較的くの摩擦を与えるからである。未の細君をもって矚目(しょくもく)された本人へ文(ふみ)をつけた恋の仇(あだ)とは夢にも知らず、「やあ」と云って武右衛門君に軽く釈(えしゃく)をして椽側(えんがわ)へ近い所へ座をしめた。

「虎の鳴き声を聞いたって詰らないじゃないか」

「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、野へ行くんです」

「へえ」

「すると公園内の老木は森々(しんしん)として物凄(ものすご)いでしょう」

「そうさな、昼間より少しは淋(さみ)しいだろう」

「それで何でもなるべく樹(き)の茂った、昼でも人の通らない所を択(よ)ってあるいていると、いつの間(ま)にか紅塵万丈(こうじんばんじょう)のに住んでる気はなくなって、山の中へ迷い込んだような持ちになるに相違ないです」

「そんな持ちになってどうするんだい」

「そんな持ちになって、しばらく佇(たたず)んでいるとたちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです」

「そう旨(うま)く鳴くかい」

「丈夫鳴きます。あの鳴き声は昼でも理科へ聞えるくらいなんですから、深夜闃寂(げきせき)として、四望(しぼう)人なく、鬼気肌(はだえ)に逼(せま)って、魑魅(ちみ)鼻を衝(つ)く際(さい)に……」

「魑魅鼻を衝くとは何のだい」

「そんなを云うじゃありませんか、怖(こわ)い時に」

「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」

「それで虎が野の老杉(ろうさん)の葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ」

「そりゃ物凄いだろう」

「どうです冒険に掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろうと思うんです」

「そうさな」と主人は武右衛門君の哀願に冷淡であるごとく、寒月君の探検にも冷淡である。

この時まで黙(もくねん)として虎の話を羨(うらや)ましそうに聞いていた武右衛門君は主人の「そうさな」で再び分の身のを思いしたと見えて、「先生、僕は配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。寒月君は不審な顔をしてこのきな頭を見た。吾輩は思う仔細(しさい)あってちょっと失敬して茶の間へ廻る。

茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を浪々(なみなみ)と注(つ)いで、アンチモニーの茶托(ちゃたく)のへ載せて、

「雪江さん、憚(はばか)りさま、これをしててさい」

「わたし、いやよ」

「どうして」と細君は少々驚ろいた体(てい)で笑いをはたと留める。

「どうしてでも」と雪江さんはやにすました顔を即席にこしらえて、傍(そば)にあった読売新聞のにのしかかるように眼を落した。細君はもう一応協商(きょうしょう)を始める。

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