正文 十一 - 4

「り前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ」

「それが本因坊流、金田流、世紳士流さ。――おい苦沙弥先生、さすがに独仙君は鎌倉へ行って万年漬を食っただけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度は据(すわ)ってる」

「だから君のような度のない男は、少し真似をするがいい」と主人が後(うし)ろ向(むき)のままで答えるやいなや、迷亭君はきな赤い舌をぺろりとした。独仙君は毫(ごう)も関せざるもののごとく、「さあ君の番だ」とまた相手を促(うなが)した。

「君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と東風君が寒月君に聞いている。

「うむ、一と通りなら誰にでもるさ」

「同じ芸術だから詩歌(しいか)の趣味のあるものはやはり音楽の方でも達が早いだろうと、ひそかに恃(たの)むところがあるんだが、どうだろう」

「いいだろう。君ならきっと手になるよ」

「君はいつ頃から始めたのかね」

「高等校時代さ。――先生(わたく)しのヴァイオリンを習いした顛末(てんまつ)をお話ししたがありましたかね」

「いいえ、まだ聞かない」

「高等校時代に先生でもあってやりしたのかい」

「なあに先生も何もありゃしない。独習さ」

「全く才だね」

「独習なら才と限ったもなかろう」と寒月君はつんとする。才と云われてつんとするのは寒月君だけだろう。

「そりゃ、どうでもいいが、どう云う風に独習したのかちょっと聞かしたまえ。参考にしたいから」

「話してもいい。先生話しましょうかね」

「ああ話したまえ」

「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往などをあるいておりますが、その時分は高等校生で西洋の音楽などをやったものはほとんどなかったのです。ことにのおった校は田舎(いなか)の田舎で麻裏草履(あさうらぞうり)さえないと云うくらいな質朴な所でしたから、校の生徒でヴァイオリンなどを弾(ひ)くものはもちろん一人もありません。……」

「何だか面白い話が向うで始まったようだ。独仙君いい加減に切りげようじゃないか」

「まだ片づかない所が二三箇所ある」

「あってもいい。概な所なら、君に進する」

「そう云ったって、貰う訳にも行かない」

「禅者にも似合わん几帳面(きちょうめん)な男だ。それじゃ一気呵(いっきかせい)にやっちまおう。――寒月君何だかよっぽど面白そうだね。――あの高等校だろう、生徒が足(はだし)で登校するのは……」

「そんなはありません」

「でも、皆(みん)なはだしで兵式体操をして、廻れ右をやるんで足の皮が変厚くなってると云う話だぜ」

「まさか。だれがそんなを云いました」

「だれでもいいよ。そうして弁には偉なる握り飯を一個、夏蜜柑(なつみかん)のように腰へぶらげてて、それを食うんだって云うじゃないか。食うと云うよりむしろ食いつくんだね。すると中から梅干が一個てるそうだ。この梅干がるのを楽しみに塩気のない周囲を一不乱に食い欠いて突進するんだと云うが、なるほど元気旺盛(おうせい)なものだね。独仙君、君の気に入りそうな話だぜ」

「質朴剛健でたのもしい気風だ」

「まだたのもしいがある。あすこには灰吹(はいふ)きがないそうだ。僕の友人があすこへ奉職をしている頃吐月峰(とげつほう)の印(いん)のある灰吹きを買いにたところが、吐月峰どころか、灰吹と名づくべきものが一個もない。不思議に思って、聞いて見たら、灰吹きなどは裏の藪(やぶ)へ行って切ってれば誰にでもるから、売る必はないと澄まして答えたそうだ。これも質朴剛健の気風をあらわす譚(びだん)だろう、ねえ独仙君」

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