正文 十一 - 10

「みんな同価(どうね)かと聞くと、へえ、どれでも変りはございません。みんな丈夫に念を入れて拵(こし)らえてございますと云いますから、蝦蟇口(がまぐち)のなかから五円札と銀貨を二十銭して意の風呂敷をしてヴァイオリンを包みました。この間(あいだ)、店のものは話を中止してじっとの顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるから分る気遣(きづかい)はないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往へたくて堪(たま)りません。ようやくの風呂敷包を外套(がいとう)のへ入れて、店をたら、番頭が声を揃(そろ)えてありがとうときな声をしたのにはひやっとしました。往へてちょっと見廻して見ると、幸(さいわい)誰もいないようですが、一丁ばかり向(むこう)から二三人して町内中に響けとばかり詩吟をしてます。こいつは変だと金善の角を西へ折れて濠端(ほりばた)を薬王師(やくおうじみち)へて、はんの木村から庚申山(こうしんやま)の裾(すそ)へてようやく宿へ帰りました。宿へ帰って見たらもう二時十分前でした」

「夜通しあるいていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに云うと「やっとがった。やれやれ長い中双六(どうちゅうすごろく)だ」と迷亭君はほっと一と息ついた。

「これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です」

「まだあるのかい。こいつは容易なじゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね」

「根気はとにかく、ここでやめちゃ仏って魂入れずと一般ですから、もう少し話します」

「話すのは無論随意さ。聞くは聞くよ」

「どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」

「こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」

「まだ売るどこじゃありません」

「そんならなお聞かなくてもいい」

「どうも困るな、東風君、君だけだね、熱に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう」

「ざっとでなくてもいいから緩(ゆっ)くり話したまえ。変面白い」

「ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず一に困ったのは置き所だね。僕の所へは分(だいぶ)人が遊びにくるから滅(めった)な所へぶらさげたり、立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。を掘って埋めちゃ掘りすのが面倒だろう」

「そうさ、井裏へでも隠したかい」と東風君は気楽なを云う。

「井はないさ。百姓(ひゃくしょうや)だもの」

「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」

「どこへ入れたと思う」

「わからないね。戸袋のなかか」

「いいえ」

「夜具にくるんで戸棚へしまったか」

「いいえ」

東風君と寒月君はヴァイオリンの隠(かく)れ(が)についてかくのごとく問答をしているうちに、主人と迷亭君も何かしきりに話している。

「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。

「どれ」

「この二行さ」

「何だって?Quid aliud est mulier nisi amiciti inimica[#「amiciti 」は底本では「amiticiae」]……こりゃ君羅甸語(ラテンご)じゃないか」

「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」

「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。

「無論読めるさ。読めるは読めるが、こりゃ何だい」

「読めるは読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」

「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」

「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね」

「従卒でもいいから何だ」

十一 - 9目录+书签十一 - 11