正文 十一 - 12

「何です、呑みびらかすと云うのは」

「衣装具(いしょうどうぐ)なら見せびらかすのだが、煙草だから呑みびらかすのさ」

「へえ、そんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう」

「ところが貰わないね。僕も男子だ」

「へえ、貰っちゃいけないんですか」

「いけるかも知れないが、貰わないね」

「それでどうしました」

「貰わないで偸(ぬす)んだ」

「おやおや」

「奴さん手拭(てぬぐい)をぶらさげて湯に掛けたから、呑むならここだと思って一不乱立てつづけに呑んで、ああ愉快だと思う間(ま)もなく、障子(しょうじ)がからりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち主さ」

「湯には這入らなかったのですか」

「這入ろうと思ったら巾着(きんちゃく)を忘れたのに気がついて、廊から引き返したんだ。人が巾着でもとりゃしまいし一それからが失敬さ」

「何とも云えませんね。煙草の御手際(おてぎわ)じゃ」

「ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると二日間の溜め呑みをやった煙草の煙りがむっとするほど室(へや)のなかに籠(こも)ってるじゃないか、悪千とはよく云ったものだね。たちまち露見してしまった」

「じいさん何とかいいましたか」

「さすが年の功だね、何にも言わずに巻煙草(まきたばこ)を五六十本半紙にくるんで、失礼ですが、こんな粗葉(そは)でよろしければどうぞお呑みさいましと云って、また湯壺(ゆつぼ)へりて行ったよ」

「そんなのが江戸趣味と云うのでしょうか」

「江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんと(おおい)に肝胆相照(かんたんあいて)らして、二週間の間面白く逗留(とうりゅう)して帰ってたよ」

「煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか」

「まあそんなところだね」

「もうヴァイオリンは片ついたかい」と主人はようやく本を伏せて、きりながらついに降参を申し込んだ。

「まだです。これからが面白いところです、ちょうどいい時ですから聞いてさい。ついでにあの碁盤ので昼寝をしている先生――何とか云いましたね、え、独仙先生、――独仙先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もうしてもいいでしょう」

「おい、独仙君、きたきた。面白い話がある。きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが配だとさ」

「え」と云いながら顔をげた独仙君の山羊髯(やぎひげ)を伝わって垂涎(よだれ)が一筋長々と流れて、蝸牛(かたつむり)の這った迹(あと)のように歴と光っている。

「ああ、眠かった。山の白雲わが懶(ものう)きに似たりか。ああ、いい持ちに寝(ね)たよ」

「寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっときちゃどうだい」

「もう、きてもいいね。何か面白い話があるかい」

「これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥君」

「どうするのかな、とんと見(けんとう)がつかない」

「これからいよいよ弾くところです」

「これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへてて、聞きたまえ」

「まだヴァイオリンかい。困ったな」

「君は無絃(むげん)の素琴(そきん)を弾ずる連中だから困らない方なんだが、寒月君のは、きいきいぴいぴい近所合壁(きんじょがっぺき)へ聞えるのだから(おおい)に困ってるところだ」

「そうかい。寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く方(ほう)を知らんですか」

「知りませんね、あるなら伺いたいもので」

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