正文 十一 - 13

「伺わなくても露(ろじ)の白牛(びゃくぎゅう)を見ればすぐ分るはずだが」と、何だか通じないを云う。寒月君はねぼけてあんな珍語を弄(ろう)するのだろうと鑑定したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。

「ようやくので一策を案しました。あくる日は長節だから、朝からうちにいて、つづらの蓋(ふた)をとって見たり、かぶせて見たり一日(いちんち)そわそわして暮らしてしまいましたがいよいよ日が暮れて、つづらの底で (こおろぎ)が鳴きした時思い切って例のヴァイオリンと弓を取りしました」

「いよいよたね」と東風君が云うと「滅(めった)に弾くとあぶないよ」と迷亭君が注意した。

「まず弓を取って、切先(きっさき)から鍔元(つばもと)までしらべて見る……」

「手な刀屋じゃあるまいし」と迷亭君が冷評(ひやか)した。

「実際これが分の魂だと思うと、侍(さむらい)が研(と)ぎ澄した名刀を、長夜(ちょうや)の灯影(ほかげ)で鞘払(さやばらい)をする時のような持ちがするものですよ。は弓を持ったままぶるぶるとふるえました」

「全く才だ」と云う東風君について「全く癲癇(てんかん)だ」と迷亭君がつけた。主人は「早く弾いたらよかろう」と云う。独仙君は困ったものだと云う顔付をする。

「ありがたいに弓は無難です。今度はヴァイオリンを同じくランプの傍(そば)へ引き付けて、裏表共よくしらべて見る。この間(あいだ)約五分間、つづらの底では始終 (こおろぎ)が鳴いていると思ってさい。……」

「何とでも思ってやるから安して弾くがいい」

「まだ弾きゃしません。――幸いヴァイオリンも疵(きず)がない。これなら丈夫とぬっくと立ちがる……」

「どっかへ行くのかい」

「まあ少し黙って聞いてさい。そう一句毎に邪魔をされちゃ話がない。……」

「おい諸君、だまるんだとさ。シーシー」

「しゃべるのは君だけだぜ」

「うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴」

「ヴァイオリンを脇に抱(か)い込んで、草履(ぞうり)を突(つっ)かけたまま二三歩草の戸をたが、まてしばし……」

「そらおいでなすった。何でも、どっかで停電するに違ないと思った」

「もう帰ったって甘干しの柿はないぜ」

「そう諸先生が御まぜ返しになってははなはだ遺憾(いかん)の至りだが、東風君一人を相手にするより致し方がない。――いいかね東風君、二三歩たがまた引き返して、国をるとき三円二十銭で買った赤毛布(あかげっと)を頭から被(かぶ)ってね、ふっとランプを消すと君真暗闇(まっくらやみ)になって今度は草履(ぞうり)の所在(ありか)が判しなくなった」

「一体どこへ行くんだい」

「まあ聞いてたまい。ようやくの草履を見つけて、表へると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。右へ右へと爪先(つまさきあが)りに庚申山(こうしんやま)へ差しかかってくると、東嶺寺(とうれいじ)の鐘がボーンと毛布(けっと)を通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。何時(なんじ)だと思う、君」

「知らないね」

「九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山八丁を平(おおだいら)と云う所まで登るのだが、平生なら臆病な僕のだから、恐しくってたまらないところだけれども、一不乱となると不思議なもので、怖(こわ)いにも怖くないにも、毛頭そんな念はてんでの中にらないよ。ただヴァイオリンが弾きたいばかりでが一杯になってるんだから妙なものさ。この平と云う所は庚申山の南側で気のいい日に登って見ると赤松の間から城が一目に見(みおろ)せる眺望佳絶の平で――そうさ広さはまあ百坪もあろうかね、真中に八畳敷ほどな一枚岩があって、北側は鵜(う)の沼(ぬま)と云う池つづきで、池のまわりは三抱えもあろうと云う樟(くすのき)ばかりだ。山のなかだから、人の住んでる所は樟脳(しょうのう)を採(と)る屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり持ちのいい場所じゃない。幸い工兵が演習のためを切り開いてくれたから、登るのに骨は折れない。ようやく一枚岩のへて、毛布(けっと)を敷いて、ともかくもそのへ坐った。こんな寒い晩に登ったのは始めてなんだから、岩のへ坐って少し落ち着くと、あたりの淋(さみ)しさが次次に腹の底へ沁(し)み渡る。こう云う場合に人のを乱すものはただ怖(こわ)いと云う感じばかりだから、この感じさえ引き抜くと、余るところは皎々冽々(こうこうれつれつ)たる空霊の気だけになる。二十分ほど茫(ぼうぜん)としているうちに何だか水晶で造った御殿のなかに、たった一人住んでるような気になった。しかもその一人住んでる僕のからだが――いやからだばかりじゃない、も魂もことごとく寒か何かで製造されたごとく、不思議に透(す)き徹(とお)ってしまって、分が水晶の御殿の中にいるのだか、分の腹の中に水晶の御殿があるのだか、わからなくなってた……」

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