正文 十一 - 16

「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。

「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。

「人間に文明の角(つの)が生えて、金米糖(こんぺいとう)のようにいらいらするからさ」と迷亭君が答える。

今度は主人の番である。主人はもったい振(ぶ)った口調で、こんな議論を始めた。

「それは僕が分(だいぶ)考えただ。僕の解釈によると世人の探偵的傾向は全く個人の覚の強過ぎるのが原因になっている。僕の覚と名づけるのは独仙君の方で云う、見仏(けんしょうじょうぶつ)とか、己はと同一体だとか云う悟の類(たぐい)ではない。……」

「おや分(だいぶ)むずかしくなってたようだ。苦沙弥君、君にしてそんな議論を舌頭(ぜっとう)に弄(ろう)するは、かく申す迷亭も憚(はばか)りながら御あとで現代の文明に対する不平を堂々と云うよ」

「勝手に云うがいい、云うもない癖に」

「ところがある。(おおい)にある。君なぞはせんだっては刑巡査を神のごとく敬(うやま)い、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪(へんげ)だが、僕などは終始一貫父母未生(ふもみしょう)前(いぜん)からただ今に至るまで、かつて説を変じたのない男だ」

「刑は刑だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。説が変らないのは発達しない証拠だ。愚(かぐ)は移らずと云うのは君のだ。……」

「これはきびしい。探偵もそうまともにくると愛いところがある」

「おれが探偵」

「探偵でないから、正直でいいと云うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その議論のあとを拝聴しよう」

「今の人の覚と云うのは己と他人の間に截(せつぜん)たる利害の鴻溝(こうこう)があると云うを知り過ぎていると云うだ。そうしてこの覚なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足もとはないようになる。ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入(はい)って、鏡の前を通る毎(ごと)に己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も己を忘るるのない人だと評したのは、よく今日(こんにち)の趨勢(すうせい)を言いあらわしている。寝てもおれ、覚(さ)めてもおれ、このおれが至るところにつけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々(ゆうゆう)とか従容(しょうよう)とか云う字は劃(かく)があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代(きんだい)の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠(かす)めて分だけうまいをしようと云う商売だから、勢(いきおい)覚が強くならなくてはん。泥棒も捕(つか)まるか、見つかるかと云う配が念頭を離れるがないから、勢覚が強くならざるをない。今の人はどうしたら己(おの)れの利になるか、損になるかと寝ても醒(さ)めても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく覚が強くならざるをない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入(い)るまで一刻の安もないのは今の人のだ。文明の咒詛(じゅそ)だ。馬鹿馬鹿しい」

「なるほど面白い解釈だ」と独仙君が云いした。こんな問題になると独仙君はなかなか引込(ひっこ)んでいない男である。「苦沙弥君の説明はよく我意(わがい)をている。昔(むか)しの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中己れと云う意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱獄だ。に何が薬だと云って己れを忘れるより薬なはない。三更月(さんこうげっか)入無我(むがにいる)とはこの至境を咏(えい)じたものさ。今の人は親切をしてもをかいている。英吉利(イギリス)のナイスなどと慢する行為も存外覚が張り切れそうになっている。英国の子が印度(インド)へ遊びに行って、印度の王族と食卓を共にした時に、その王族が子の前ともづかずに、つい国の我流をして馬鈴薯(じゃがいも)を手攫(てづか)みで皿へとって、あとから真赤(まっか)になって愧(は)じ入ったら、子は知らん顔をしてやはり二本指で馬鈴薯を皿へとったそうだ……」

「それが英吉利趣味ですか」これは寒月君の質問であった。

「僕はこんな話を聞いた」と主人が後(あと)をつける。「やはり英国のある兵営で聯隊の士官が勢して一人の士官を御馳走したがある。御馳走が済んで手を洗う水を硝子鉢(ガラスばち)へ入れてしたら、この士官は宴になれんと見えて、硝子鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。すると聯隊長が突士官の健康を祝すと云いながら、やはりフ ンガー·ボールの水を一息に飲み干したそうだ。そこで並(な)みいる士官も我劣らじと水盃(みずさかずき)を挙げて士官の健康を祝したと云うぜ」

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