正文 十一 - 23

「今のはね、御主人の御考ではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安なさい」

「存じません」と妻君は遠くで簡単な返をした。寒月君はくすくすと笑った。

「も存じませんで失礼しましたアハハハハ」と迷亭君は遠慮なく笑ってると、門口(かどぐち)をあらあらしくあけて、頼むとも、御免とも云わず、きな足音がしたと思ったら、座敷の唐紙が乱暴にあいて、々良三平(たたらさんぺい)君の顔がその間からあらわれた。

三平君今日はいつに似ず、真白なシャツに卸立(おろした)てのフロックを着て、すでに幾分か相場(そうば)を狂わせてるへ、右の手へ重そうにげた四本の麦酒(ビール)を縄ぐるみ、鰹節(かつぶし)の傍(そば)へ置くと同時に挨拶もせず、どっかと腰をろして、かつ膝を崩したのは目覚(めざま)しい武者振(むしゃぶり)である。

「先生胃病は近いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」

「まだ悪いとも何ともいやしない」

「いわんばってんが、顔色はよかなかごたる。先生顔色が黄(きい)ですばい。近頃は釣がいいです。品川から舟を一艘雇うて――はこの前の日曜に行きました」

「何か釣れたかい」

「何も釣れません」

「釣れなくっても面白いのかい」

「浩(こうぜん)の気を養うたい、あなた。どうですあなたがた。釣に行ったがありますか。面白いですよ釣は。きな海のを舟で乗り廻わしてあるくのですからね」と誰彼の容赦なく話しかける。

「僕はさな海のを船で乗り廻してあるきたいんだ」と迷亭君が相手になる。

「どうせ釣るなら、鯨(くじら)か人魚でも釣らなくっちゃ、詰らないです」と寒月君が答えた。

「そんなものが釣れますか。文者は常識がないですね。……」

「僕は文者じゃありません」

「そうですか、何ですかあなたは。のようなビジネス·マンになると常識が一番切ですからね。先生は近よっぽど常識に富んでました。どうしてもあんな所にいると、傍(はた)が傍だから、おのずから、そうなってしまうです」

「どうなってしまうのだ」

「煙草(たばこ)でもですね、朝日や、敷島(しきしま)をふかしていては幅が利(き)かんです」と云いながら、吸口に金箔(きんぱく)のついた埃及(エジプト)煙草をして、すぱすぱ吸いした、

「そんな贅沢(ぜいたく)をする金があるのかい」

「金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、変信が違います」

「寒月君が珠を磨くよりも楽な信でいい、手数(てすう)がかからない。軽便信だね」と迷亭が寒月にいうと、寒月が何とも答えない間に、三平君は

「あなたが寒月さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから、が貰うにしました」

「博士をですか」

「いいえ、金田の令嬢をです。実は御気の毒と思うたですたい。しかし先方で是非貰うてくれ貰うてくれと云うから、とうとう貰うに極(き)めました、先生。しかし寒月さんに義理がわるいと思って配しています」

「どうか御遠慮なく」と寒月君が云うと、主人は

「貰いたければ貰ったら、いいだろう」と曖昧(あいまい)な返をする。

「そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても配するがものはないんだよ。だれか貰うと、さっき僕が云った通り、ちゃんとこんな立派な紳士の御聟(むこ)さんがたじゃないか。東風君新体詩の種がた。早速とりかかりたまえ」と迷亭君が例のごとく調子づくと三平君は

「あなたが東風君ですか、結婚の時に何かってくれませんか。すぐ活版にして方々へくばります。太陽へもしてもらいます」

「ええ何かりましょう、いつ頃(ごろ)御入(にゅうよう)ですか」

「いつでもいいです。今までったうちでもいいです。その代りです。披露(ひろう)のとき呼んで御馳走(ごちそう)するです。シャンパンを飲ませるです。君シャンパンを飲んだがありますか。シャンパンは旨(うま)いです。――先生披露のときに楽隊を呼ぶつもりですが、東風君のを譜にして奏したらどうでしょう」

「勝手にするがいい」

「先生、譜にしてさらんか」

「馬鹿云え」

「だれか、このうちに音楽のるものはおらんですか」

「落の候補者寒月君はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んで見たまえ。しかしシャンパンくらいじゃ承知しそうもない男だ」

「シャンパンもですね。一瓶(ひとびん)四円や五円のじゃよくないです。の御馳走するのはそんな安いのじゃないですが、君一つ譜をってくれませんか」

「ええりますとも、一瓶二十銭のシャンパンでもります。なんならただでもります」

「ただは頼みません、御礼はするです。シャンパンがいやなら、こう云う御礼はどうです」と云いながら着の隠袋(かくし)のなかから七八枚の写真をしてばらばらと畳のへ落す。半身がある。全身がある。立ってるのがある。坐ってるのがある。袴(はかま)を穿(は)いてるがある。振袖(ふりそで)がある。高島田がある。ことごとく妙齢の女子ばかりである。

「先生候補者がこれだけあるです。寒月君と東風君にこのうちどれか御礼に周旋してもいいです。こりゃどうです」と一枚寒月君につき付ける。

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